金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

子供自身が決めるのが大事では?

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心ない仇名で傷つく子供もいる。でも愛称として気にいる場合もある。

呼び捨てされたくないと思う相手もいる。でも親しい仲間内のコミュニケーションでは「さん」なんてつけないよね。

大事なことはそれらを一律禁止するのではなく子供自身が嫌だという意思表示をし、それによってやめることもあれば、そのままでもいいということもできることだろう。傷ついたらそれを口にし、相手に伝えることこそ子供には大切だ。

学校がしなくてはいけないことはそれだと思うが・・・

教育とはそういうものではないのか?

子供とはいつまでも守られなくてはならない羊の群れのようなものではないだろう。

 

誰かが傷ついた一律全面禁止

世の中のこの傾向はそれおかしいだろう。

いま、日本全体がそうなりつつある。

 

他のヴァージョンでも「傷ついた!どうしてくれる!」が蔓延している。

どんな場合でも傷つく側には原因がないのかい?

「傷つく」ことがとりもなおさず「気づき」になることもあるのに。

 

これはかなりむかしのことだが、うちのお札をいきなり返して来た人がいる。

その時はお金もなく困っているけど「なんとかならないですか。助けて欲しい。」というので、まったく知らない人でもないから無料で拝んであげた。

そうしたら日ならずして返送されてきた。

あとで電話が来た。

別な宗教している知り合いから「そんなものを祀るのはかえってよくない」といわれたそうだ。

それで返してきたらしい。

その時はそれもその人の勝手なのでなにもいわず「ああ、わかりました。」で切ろうとしたら

「でも本当はどうなのですか?よくないの?」ときた。

「知りませんね。あなたは頼むだけ頼んで、先に何を聞きもしないで自分の判断だけで返してきたんでしょう。いまさら何を聞くと言うんです。話すことなどない。」と言ったら

「そんないいかたされたら凄く傷つく!どうかと思う。」ときたもんだ。

どうかと思うのはこっちだ。

それで「そんなに傷ついたならそれはこちらも大変に好都合だ。あなたみたいなものはこれに懲りてもう二度と電話しないでください。」と言って切った。

傷ついたと言ったもの勝ちですか?

傷つけば猫も杓子も即被害者という考えは私にはない。