よくスピリチュアルな世界では自分を宇宙と一致化させるワークだの瞑想だのやりますが、仏教的にはそれ認識が違う。
それだと自分と宇宙がいつまでも二つある。
梵我一如と表現する人もいる。
梵と我、ブラフマンとアートマン。
本当のヒンドゥーではどういうのかしらないがザックリそういう考えに近い。
仏教では逆、我に宇宙を一体化させる。
我即宇宙。
私がいて感じているものがそのまま宇宙。
それ以外に宇宙は存在しない。宇宙と我はふたつではない。
我が宇宙に一体になる瞑想などは非日常的なワークである。
だが対するに宇宙即我は観念であり、常に持っていられる感覚だ。
出来上がればワークも瞑想もあえていらない。
悟りとは言い換えれば事実を知ることに他ならない。
ならばそこに自分が敢えて思いを深くすることも強調することもいらない。
例えば「空が青い」と知ったら自分に対して「空は青い」という瞑想だの暗示だのを頻繁にすることになにも意味などない。
似ているようでまるきり違う。