勉強熱心な人ほどお経の内容などに興味を持つのは当然です。
ですが学問で理解しても通力などは絶対出ません。
それが信じる力になって初めて力となります。
逆に学びが疑問になって通力を失った話もある。
「おんころころすべってころんでまたおきた」という呪で薬師如来を拝み、多くの病人をなおした行者が、「それはオンコロコロセンダリマトウギソワカというのだ。あなたの真言は大いに間違っている」と僧侶から諭されて通力を失ってしまった話がある。
だからといって無論これは正しい学びをしないほうが良いという話ではない。
その昔、霊友会の小谷喜美会長は、教団の会議で方針を変えてこれからは法華経の学問を中心にしていきたいと聞くと激怒したという。
大変失礼な言い方だがご自分は子供のころの事情で学校もろくにいかれないで、学がまるでなかったからということもあるだろう。
だが、小谷氏は法華経二十八品全て暗記して全てそらんじることができたという。
それだけの行力があった。
冬などは背中の肉が寒中の水行でえみわれ、いつも白衣に血がにじんで見えたとさえ聞く。
霊友会の成立はこの人の類のない霊力抜きには語れないだろう。
天台の教えでは学問と行は双修であるべきだが、双修とは学問が先行すれば行力がつくわけでもなく、逆に行さえすれば学が深まるというものでもない。
補うものではない故、「双修」なのだ。
行は行で大変だろうが、学問は学問で決して簡単ではない。知れば知るほど疑問が山積みになる。これに終わりはないだろう。
私はどちらかというと全くもって学問の人ではないので、実践の上で疑問に思うことは学びに臨みつきつめようと努力しますが、学問のための学問まではする余裕はない。
そういうタイプでもないし第一そんなアタマもない。