今日で一日から五座目、浴油だけでも二時間はかかる。諸尊法楽を入れればさらなり。
こんな具合で大変は大変だが最終座を叉手一礼して終わるとき、いつも自然に口から出るのは「ありがとうございました」という言葉だ。
決して「ああ、やれやれ 終わった~!」ではない。
思い返すと若いうちの山修行や加行などは「ああ、終わった~‼」だけだった。
でも今思えばそれでは修行は修行でも密教行法にはなっていなかったと思う。
自分がやっているという思いだけでやってるからそういう言葉になる。
本尊の加護を頂戴したからこそできたのだという心がない。想いもない。
少なくともと愚かな若き行者だった私の体験ではそう。
一生懸命頑張るのは当たり前だが、頑張れたからそれだけでできたわけじゃない。
まあ、恥ずべきことだがしょうがない、最初は皆そんなものかもね。
このお浴油は自分と聖天様とふたりでやっているのだ。
お不動様の護摩だってそうだ。
なに様の祈祷でもどこまでもそうだ。
いくら辛どくても決して自分だけでやっているわけではないのだ。
でも恐れながら聖天様だけでもお浴油にはならない。
香油を掛ける行者、それをうける尊天がいて浴油。
二人三脚。二人で一つ。
そこから現実に作用が生まれる。
密教の言う現実の即身成仏はこれだ。ほかにないと思う。
あとはただ絵空事のような思い込みや個の世界の神秘体験だけだろう。
私は即身成仏とは「この世で果たせるみほとけとの融合の限界」だと思っている。
金ぴかの大日如来になったり、何かエライものになるわけじゃない。
「即身」とはすなわちどこまでもただの人間だということだ。
だから「即身成仏」は本尊との加持なくしてはなしえない。
いうなれば本尊様はそういうかけがえなきコンビなのだ。