祈願寺には霊能のある人も集まりやすい。
善意でいろいろ言ってくれるが私は自分が確信がない限りは一切採用しない。
まあ。自分が確信があるなら同じように感じる人がいると意を新たにすることもできる。その程度だ。
そうでないなら聞き流すだけ。
否定はする必要はないからあえてしない。
採用しないのは責任がとれないからだ。
密教僧は自分が霊能者でないかぎり、霊能ある在家の言うことは参考にすることはまだしも全面的に取り入れるなど断じてあってはならない。
「先生、私が注意したのになぜそうしないのですか?」
という人には理由をハッキリ言う。
事あるごとに霊能者にものを聞いたりするうちに霊能者はだんだんと人に言うことに責任を持つようにと思う。それは同時に人の支配者的になる道であゆませることとなる。
ハッキリ言ってそれは危ない。
霊能者が善意の人でもその扱いが人を変えてしまうのだ。
そのままだと時には住職の師匠のようになってしまう。それ最悪。
一方霊能者も霊能者の看板で食べているプロか別だが、本来霊能があってもそれは感じたままなのだから責任など持つ必要は微塵もない。
もし本当に霊能者にもの聞きたいならプロに対価を払って限定して聞きたいことを聞くべきだろう。
一方素人レベルは問われるままに応えただけというなら言ったことが当たらなくても少しも罪の意識を持つ必要はない。
採用するものにこそ責任はある。
だからそれを採用する場合はそのつもりでないといけない。
問題が起きてから霊能者の責任にするのはみっともないし無責任だ。