功徳を作ること須弥山の如くも、ひとたび怒ればその功徳をすべて失うとは釈尊の金言である。
不瞋恚は物価第一の戒めだ。
徳を積む修行の基本は怒らざるにしかずだ。
怒ることを制止する難しさはその人の心に怒る判断基準があるからである。
怒りを失うことは、「怒らないとどうなってしまうのか」という一種の危機でさえある。
近年、故人となられたがS老師には二回武術鍛錬のご教授をいただいた。
気功の師であるI先生の師匠だ。
S老師は韓国併合時代の韓国でそこそこ大きい果樹園の家の子息に生まれたという。
日本人である。
裕福ではあったが生来病弱、四百四病の持ち主であった。
余りの病気に堪えかねて死のうと池に身を投じたが、自然と泳ぐ自分を見出し、人は命尽きると時が来るまで死ねないものと思われたそうだ。
大戦後、日本に引き揚げた。
和歌山にいらしたそうだが、ある日、不思議な男性が現れて山にいざなわれた。
以後S師は山で過ごした。もうそう長くないと思っていたせいか構わず家を捨てて山に行ったらしい。
だがその山での生活で体はすっかり良くなった。
洞窟のようなところに1人で住まわされ。男性はどこからともなく毎日あらわれたそうだ。
その男性は戦前は大陸浪人かなにかで武術家だったようだ。八卦掌のような武術を教えてくれたという。
そうしたある日、急に殴られた。
「なにをするんです!」
すると男性は「なぜ怒るんだ?」と尋ねたらしい。
「そりゃあいきなり殴られれば誰だって怒るのは当たり前でしょう?」というと、
「ちょっと待て、その怒る前に判断があったはずだ。お前は殴られたという認識の後、これは怒らないといけないと思って怒ったのだろう?そういう判断で怒ったのだ。ちがうか?」といいわれた。
まるでアドラー心理学だ。
「それを観察しろ。怒る前に意識して止めてみろ」と言うことでそれからは毎日打ったり蹴ったりされたそうだ。
しまいには打たれても蹴られてもまったく怒らなくなったという。
かなりハードだがこの指導者もただものでなけれなばS師もまたただものではない。
だが、怒りを止める訓練はここまでしなくてもできるだろう。
私の師匠は怒って何か言おうとしたときは、まず唾を飲め、ひと呼吸しろと教えた。
下はダライラマ法王の怒りのお話