里見師の
「これは出来るだろうな」と実は思っていた。という感覚
祈祷をする者にとってこれはとても大事だ。でもこれは自己暗示ではない。
暗示をかけているのものはどもにもいない。
人間の通常の精神活動と次元が違うのだ。
「内在の本尊に問う」といえば大げさだが実はそうだ。
分かりにくいという人はハイヤーセルフでもなんでもいい。そういうもの。
いわゆる「高次元の自我」だが、実は仏教的には高次元に確たる自我はない。
だから本尊だ。
行者と本尊は融合していないといけない。
少なくともこういう場面ではそうだ。
常なれば「加持身成仏」というレベルになる。もう常に言う自我「わたし」ではない。
現実の場面で神も仏もあらゆる信仰対象は全知全能でも万能でもない。
私たちと同じ時空の軸の上に存在している以上はそうだ。
だからできるもあればできないもある。
「できる」はできると教えてくれる。
もちろん、「できない」も「未確定」も在れば「わからない」もある。
まったく分からないのはコンタクトがとれていないのだ。
里見師はラポールと表現しているが・・・
わからないのは本尊と融合していても相手と融合できなければ何にもわからない。
ここが化他の条件となる。
平たく言えばあうあわないがあるということになる。
だから私の場合、相談にきて拝んでほしいといっても拝まないでおわることはある。
少なくとも今この場はなにもできることはないなということはある。
その場合はやんわり断っている。
あるいは祈祷の話には触れない。
それがわかれば相談でもその人に対してより深い情報を得られる。
実のところ、情報源として「これは出来るだろうな」の感覚とまったく同じものを使っているのだ。