金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

青葉被告自身は生きていたいのだろうか。

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「今回の裁判で死刑制度を議論するのは不適切だ」。29日の前回公判。25歳の娘が犠牲になった父親は、被告の前でこう訴えかけた。 念頭にあるのは27日の弁護側による冒頭陳述だ。唐突に死刑制度の是非について言及した弁護側は「人を殺すことは悪いことなのに、なぜ死刑は正当化されるのか」。また死刑を「残虐な刑罰」とした過去の最高裁判例を示しながら、「なぜ死刑が認められているのかを考えながら審理に当たっていただきたい」と裁判員らに求めたのだった。 この遺族の父親は、弁護側の問題意識を一蹴した。死刑制度を議論する前提として、冤罪(えんざい)による執行を防ぐことへの理解を示したものの、京アニ事件では被告の犯人性に争いはないと主張。「冤罪は争えない。死刑制度の議論は別の場所で行っていただきたい」と求めたのだ。弁護側は父親の訴えを、表情を変えることなく静かに聞くだけだった。

この遺族の父親が被告の生い立ちに言及する場面もあった。被告が少年時代に虐待を受けたことなどが法廷で明かされたが、父親は「絶句するようなものはないと思います」。被告が実の父親に「柔道大会の盾を燃やせ」と告げられた中学時代のエピソードに絡み、「柔道をやる許可をしてもらい、柔道に励むことができ、柔道ができるほど栄養状態も良好で体力もあったことが分かります」(遺族の父親)。被告の生活保護受給に関しても「甘えがあったと思う」と冷静に指摘した上で、量刑についてこう述べた。「謝罪や反省は求めていません。そんなことで償える犯行ではないからです」 他の遺族からも厳しい声が続いた。「被害者が味わった恐怖や絶望を同じように味わってほしい」「一刻も早くこの世界から消え去ってほしい」。涙をこらえながら必死に声を絞り出したり、怒りに声を震わせたり。今も続く苦しみや憎しみ、そして何よりも家族を失った悲しみにさいなまれる遺族の言葉に対し、廷内にはすすり泣く声が響いた。

 

「唐突に死刑制度の是非について言及した弁護側は「人を殺すことは悪いことなのに、なぜ死刑は正当化されるのか」。また死刑を「残虐な刑罰」とした過去の最高裁判例を示しながら、「なぜ死刑が認められているのかを考えながら審理に当たっていただきたい」と裁判員らに求めたのだった。」

これ自体が嗤うべき茶番でしかない。だったら人の自由を奪うのもよかないだろうから刑務所など作らなければいい。

私はこれほどの悪人を二度と日の目を見せずに葬り去るのは良い事以外のなにものでもないと思う。

 

当の青葉被告自身は生きていたいのだろうか。

まあ生きていては気がすまないという遺族感情もうなずける話だ。

だが青葉自身が生きていたいとするならもうそこに社会的自我はない。

社会に生きる人間としての生命はないに等しい。

一個の生き物とし生きていたいというところまで意識が後退しているに違いない。

そうならば、もはや人でありながら昆虫のような存在だ。

ただ生きたいのみ。

どう思われようがいかに蔑まれ憎まれようがが生きていればいいというだけのレベル。

昆虫は昆虫で蛆虫でさえ立派な存在意義はあるが。人間でそれでは存在意義はほとんどない。

自らが生きていたいという以外にはね。

 

そのような愚かでくだらなものを殺してみても何にもならないような気もする。

弁護側の言うように心神耗弱状態で人を殺しても責任能力がない。而して罪を問わないとするならば、そのようなものに人権は我々と平等に与えられないだろう。

与えられてよいわけはない。

私としてはそうもいくまいが、むしろこう言おう人間は世間に出して、凄惨な社会の制裁にあって自ら死んだほうがましと思うようになるまで生かしておけばいいと思う。

それで初めて罪を知って人として死ねるだろう。