金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

戯論

魚の標本、昆虫の標本で生きた魚た昆虫はわからない。

それはあくまで魚や昆虫の死骸でしかない。

真如を「定義しよう」とするのも同じことだ。

「真如を知りたいんです。」などと言うが言語化して真如の標本が作りたいだけだ。

そこにどれほどの意味もない。

それで得たりと思うぶんだけ害がある、毒になる。

仮に真如を言語で封じ込めてみても本当のことなどわからない。

それは展示物用の死んだ真如だ。

それでもって分かったように思ってその前提でものを言えば戯論の極みだ。