偶々、先日性善説、性悪説の話になった。
よく言われる。仏教はどっちなのかとか聞く人もいる。
私としては答えはない。
あえて答えていうならどちらでもない。
仏教とは別な概念だと思う。
仏性というのがあって性善説という人もいるが、仏性は人間だけにあるわけではない、虎や毒蛇にも仏性はあることになっている。
彼らにいわゆる善も悪もない。
譬え毒蛇やトラでも人間にとって害があるか否かだけで良いの悪いのというが、それはあくまで人間の都合で言うだけだ。
なにも絶対的な価値などない。
まあ、あえて「価値観」というのがあるのは人間のみだろうと言えばそうかもしれない。
だが価値観はなくても価値はあらゆる生き物にとって存在する。
だから仏性の話を性悪説、性善説というかたちでするのは見当違いだと思う。
仏教では「善悪不二」という。
善悪二元論的なキリスト教の影響下で生まれた西洋哲学では全く理解できないかもしれない。
それはどちらも生命がよりよく生きたいという本来的欲望から出ていることに違いはないからだ。
生命も人も善、悪について本来無記である。選択的二元論ではない。
私は善悪も生物学、動物学的に考えている。
水牛や猿やペンギンなどは時に人間のように助け合って外敵を追い払うことが知られている。
なぜなら彼らは群れる動物で仲間が必要だからだ。
頭脳活動が高度な哺乳類でなくてもハチやアリでもそうだ。
これからみて仲間を益し、守ることが善の最も原初的スタイルだと思っている。
なぜそうするのか?それをしないとしまいには自分も滅ぶからだ。
それが善の正体。そう思っている。
極めて単純だ。
だから善の行為の最も原初のかたちは知的活動に淵源しない。高度な哲学的思弁のものでもなんでもないと私は思っている。
一匹で暮らす性格の生き物に善も悪もあるまい。
ただ敵味方の区別くらいはあるから味方を損なわないのは善だと言えるかもしれない。
集団で生きるには悪とは滅びの道だ。
一見利得があるように見えて最後にそれにより自滅する道。
悪とはそういうものだと思う。
群生動物は原初的生物ほど本能的に助けあうのでほとんど例外はない。
高度な群生動物である人間においては悪はつまり仲間、同胞を大事にしないという無知。無理解から生まれる。
逆なベクトルでは同胞の輪は理解によりドンドン拡大する。家族、地域、国、しまいには世界人類、生き物すべてにまで及ぶ。
だがそこに無知があるか否かでの違いはあれ、人の性自体は善でも悪でもない。
善も悪も生命の営みから生まれる波に過ぎない。本質などではない。
生命の営みに適合していれば善、不適合なら悪だというだけのこと。
昨日の話では自民党の裏金問題でお金から話が出て「人はお金については性悪説で考えるてしかるべき」という話を聞いた。
だが、何かしらの案件において個別に善悪をいうのは、それは性悪説でも性善説でもないだろう。
あえていいかえるなら「性悪説的に考える」という意味だろうか。
両方とも人の本質、つまり本性を言うものだからだ。お金のみにおいてはどうと選択的には言えない。
まあ、所詮、性善説も性悪説も頭にない私にはどうでもいい話だが。
全ての悪は人生への無理解と無知より生まれる。仏教ではこれを「愚痴」という。