たまに議論を挑まれるが。議論のための議論には何の興味も価値も感じていない。
若いうちは山ほどしたが今はもう議論は一切しない。
会議など何かを決めるべき目的設定された話の場は別だが・・・議論のための議論はしない。
意味を感じない。せいぜい、くやしがるだけだ。
勝っても敗れてもなにもいいことはない。
フェイスブックもそんな傾向が強い。群れるか、反発するか。
どちらも好きじゃないからやめた。
詰まらないゲームにしか見えない。
正反対の意見の人が討論すると歩み寄らず。ますます反発力が強くなって理論武装するだけというデータがある。
そんなものだ。
ネットで言う「論破」なんかもその類だ。
大事なのは負けないことだけだ。学びもゼロ。価値もゼロ。
カブトムシの相撲みたいなものでしかない。
いにしへの宗教者などは負けたほうが喜んだ。大きな知恵と学びを得たからだ。
質問にはわかれることならば答える。
話を聞きたければそれもしよう。
だけど、それが正しいかと言えばわからない。学問的なことは学者に聞いた方がいい。
私はそう思うというだけだ。
その私の話にどれほど価値があるか、それも全然わからないことの方が多い。
だから議論まではしない。
自分で正しいのではないかと思うだけで正しいかどうかは知らないからだ。
したがって、相手の反論を聞いても「アンタはそう思うならそれでいいのでは?」としか思わない。
ただし言っておくが、相手の話にも自分の話と同じくらいの価値しか感じていない。
相手がどう思おうと私の知ったことではない。
こちらから干渉も説得も一切しない。
つまらぬ議論で話をまとめて共感する必要などことさらに感じないからだ。
そんなことをしなくてはいけない理由は何もない。
なぜなら人間の多くは感情的な動機で動き生きるものだからだ。
勝とうが負けようが感情的なしこりが残るくらいが関の山なのだ。
それを超えるほどの価値ある議論など、私のようなガンジス川の砂粒にも等しい身の上にはほとんど何も存在しない。
哲学的討論などなにほどの意味もない。
そんなことはもっと利口な人としたらいい。
バカを相手にしても無駄ですよ。議論ではバカには勝てないといいますから。