金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

信仰の果ては得度と限らない

この間、存じ上げない方から得度について聞かれました。

別にうちで得度したいわけではないらしいので得度一般のお話。

そこで、まず信仰の先に必ず得度があるわけではない。

得度しないでも在家の信仰は信仰。

それでなにも悪くはないと申し上げた。

 

僧侶になる人には今生で得度の因縁があると思う。

それは世間に奉仕する人ということだ。

仏教を以て。

 

その因縁の有無は宿命通なき凡夫の身ではわからないが、稀ではあるが、人によりけりで「この人には必要かもしれない」とは思う方はいる。

逆にこの人はしないほうがいいと思う人もいる。

してはダメもある。これはわかりやすい。

それは

 

礼儀や社会常識が無い人

怒りが多い人

軽薄で慢心の人

勉強熱心だが腰が一か所に落ち着かぬ人

心身が病んでいる状況の人

祈願を果たす目的で得度する人

ウソを平然と言う人 これは最悪!

仏教上では殺人、窃盗、性的犯罪と並ぶ大罪です。

 

だから病気が治るように得度したらよいとかはあり得ない。

得度してご褒美など何一つない。

そう言う意味でのサプライズはハッキリ言ってシンドイ以外なにもない。

昔、結婚したいがなかなかできないので得度したという女性がいたが・・・・どこの世界に結婚したいのに尼僧になる人がいるのだろうか。