当院は武術を愛し、武に優れた方がよく集まります。
私自身はただの下手の横好きですが、テコンドー、キックボクシング、陳家太極拳、
空手、蟷螂拳、合気道等々皆それぞれにやりこんでいる。
皆、やりこむほどに紳士的だ。
狼藉のものはいない。
当院で大東流合気術の師範をお呼びして道場を3年ほどしていたこともある。
当時は女性行者も参加していた。
この間、京都で入構希望でお会いしたひとは極真空手の黒帯の方でした。
なぜか武の人が集まる。
理由はわからないがそれらの人はある意味修行には向いているといえる。
体を使い耐えることを知っているからだ。
昔は新人採用で武術をしている人は有利なくらいだった。今は知らないが。
修験では山にも行けない口先三寸のヘタレは通用しない。
少なくとも体が健康でないと無理だ。
だが、頭でっかちの口幅ったいことを言う人はしまいには去るしかない。
逆にうちはいわゆる学者タイプの人の来て思い白いところではないかもしれない。
私はなにほどの知識はないし、学者タイプの方にはしばしば知識がそのまま自分の人格評価になると勘違いしている人がいるからだ。
スキルとしては学問があるのは大いに結構だが人格や修行はまた別次元だからだ。
そちらができていない人とは難しい教学的な話はしないことにしている。
僧侶は武術を修めたりするものではないという話も聞く。
チベットで国防大臣になった方は僧でわざわざ還俗されたという。
だがそれは昔のように実際に人を殺傷することが前提で練習する場合。
修養は別だ。
武は本来、矛を止めると書く。
武は真の平和を守るには絶対に必要なものだ。
だから自衛隊全廃などと叫ぶものはニセものの似非平和主義者だと思っている。
戦争が根絶した世の中なら兵器は用はない。兵士もいらない。
だが世界は未だに血みどろだ。愚かな人間は理屈をつけては欲望のために争いを起す。
武の心無くして平和はない。人生は戦いから逃げて解決はしない。
誰も守れない。自分さえも。
おのれを練り、己に勝つ道。
仏道、修験道の修行にも通じます。