金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

施無畏者

観音さまの別名は施無畏者と云います。「怖れ無き」を施すものです。
実際、世の中には怖い事がいっぱいです。
病気も怖い。事故や怪我も怖い。失業も怖い。商売が儲からないのも怖い。お金が無くなるのも怖いし、人に嫌われるのも怖い。愛する人に裏切られるのも怖い。他人に馬鹿にされているんじゃないかと思うのさえ怖い。そうじゃなくても会社のあの人が怖い、得意先のあの担当者が怖い、人の妬みや噂が怖い 等々。
観音さまは施無畏者ですから恐ろしいことは頼めばみんな全て観音が取り払ってくれるということでしょうか?
勿論観音さまは施無畏者ですがこれは少し違います。

私たちは怖いことが起きるより怖い思いをしている方が何百倍も大きいのです。
実際はほとんど起きないことを想定して毎日生きています。
子供を繰り出すお母さんのなかには毎朝、子供が車にひかれたり、攫われたり、そういう瞬間を思いきり想像して心配している人もいます。
毎日毎日無事に帰ってきても心配は少しも減らない。明日こそなんか悪いことがあるかも?と思って心配です。
実際に何もかもわからない一寸先闇の世の中です。
ですから当然なにごとも用心は必要ですね。
問題なのは用心できない部分も思いきり心配するということです。

私は子供の頃人間は最後はみんな死ぬものと聞いて思い切り怖かった。
無論、そんなの怖がったってしょうがないのですけどね。
中学時代に心霊学に出合って「ああ、人間は本当にはなくならないのだ。」と知りました。それで心霊学を勉強し出した。
そしたら今度は「生き通し」と云うのが怖い。
何度でも転生してきて時には八つ裂きになったり焼き殺されたりしたらいやだとか思うわけです。
でもほとんどの人は「生まれ変わりなんてあるはず無いよ。」と思いながらも自分が最後には死ぬことを敢えて怖いとも思わず生きています。
なぜでしょう?
これは騒いでもムダ。心配しても絶対無駄だということがわかっているからでしょう。
それでもいざ死ぬとなれば例外なく大騒ぎですが、その時までは普段は忘れているくらいにはなれるわけです。
だから本当は心配はしたくてしているのですね。私たちは。
生老病死の四苦はまぬかれ難しといいます。
つまり年老いて、病んで、死ぬ。それ以外にも生きていれば何かとしんどい。そういうことです。
だからこれがそうなんだよねと徹底すればそんなに怖くないのです。
普段はマア忘れるくらいにはなれる。
勿論、病気したからと云ってすぐに死ぬとは決まっていないです。
年が若いならほとんどは治る事の方が多い。
老いてそれなりにもお化粧したり、養生すればまた違ってくるでしょう。
でも最後には死ぬということはどうにもならない。これは決定的です。
そこを敢えて忘れているのです。
何故、私たちはこんな恐ろしいことを措いてほかのたいしたことでもないことを前にジタバタするのでしょうか。
実はほとんどの人がそういう心配や微細な恐怖でつかれはてています。でもそれはそうやって心配するのが大事なことなんだと思いこんでいるのです。
人生何事にもシッカリした準備や要心はもちろん大事です。でもそこから先の心配はムダ。忘れるほかありません。
たとえば子供を見送る、あるいは迎えに行くまではできますが一日中ついていられませんよね。
あるいは交通事故が怖いから一歩も家から出ませんか?
実際そういう人もいますが、彼らはそれが役に立つと信じているわけです。
彼らはそうすることで最悪の事態から遠ざかると信じている。
実際そうかもしれません。
その行動の弊害を一切見無視するならそうです。
前にテレビで愛犬が地面を歩くと黴菌がつくというので、靴下はかせてその上、乳母車で散歩させているクレイジーな人が出てました。(これってその人は散歩になっても犬は散歩にならないよね?)
人間でもそういう風なのが安全でいいのでしょうか?
「違うでしょ。」とほとんどの人は思うでしょう。
でも、程度の差はあれそういう心配をしているのです。
すべき心配なら即、それは行動に変えましょう。
心配のままほっておくのは夏休みの末までやっていない宿題に手を付けずに、思い出しては憂鬱になるようなものです。
やらないからこそ憂鬱なのです。この場合、心配して憂鬱になることで宿題は大事だというメッセージをあえて保持し自分を責め続けているのです。
でも、いくらおのれを責めても実際はやらなかればやらないでしまいです。
やることやって其の上でどうにもならないことなんて忘れちまいましょう。
絶対の安全や安心なんて本当はありゃしない。それは皆がよく知っているよね。
そんな不確定な世界に生きていても観音さまを信仰しているから怖くない。
これは観音さまを信仰しているから嫌なことが一切ない、老いもしない、病気もしない、ましてや死なないというようなことではありません。
どんな嫌なことがあろうが、病気しようが、年とろうが、そしてたとえ死のうが観音さまを信仰しているからどうなろうが大丈夫なのです。

根拠は?有る訳ありません。
実はこの根拠のない思い込みが実は私たちを救ってくれるのです。
根拠がないから信仰なのです。
この「大丈夫」とは純粋な「安心」そのもののことです。
心が安まると書いてアンシン。安心とはすなわち心が休まることです。もうジタバタはしないことです。
信仰にはそういう力があるのです。
強いですよ。なにせ根拠のないものは突き崩しようがないですから。