金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

受戒の意味

この間、たまたま「得度」して僧籍取りたい人は・・・の話が出ました。
うちの場合は信徒講に入る折、だれでも在家の五戒を授与しますので在家の仏教信者ということになっているのです。
此れって実は本山でいう「得度」と同じ内容です。僧形にしないだけ。
在家ですから。このレベルは実は僧侶ではないです。
僧侶になるのは円の十善戒を受けて初めてなれる。
これを坊さんになる準備で受ければ御小僧さんが受ける「沙弥戒」になるわけですね。
でもこのレベルまでは目下、本山でも剃髪なんて強要まではまったくしないから形の上は同じです。
従って本当は得度受戒と一口にいうけど「在家戒の受戒」というべきですね。
うちでは講に入るときに在家の五戒はもう伝授しちゃっている。だからいざ得度と云っても特別なことはしません。もう終わっていますから。
これを本山に届けると「準教師」というのになりますが、勿論これも誰でも届けるわけじゃない。ここのところは山門天台宗でいえばお座主猊下の御巡教でお受戒うけるのと内容的には同じです。山門の方は在家でもお名前までくださるそうですね。
こちらは届けて宗派に登録するのは修行したい人だけです。
最もここのところは誰でもオーケーじゃないですね。
こちらが終生師匠になるのだからこの人はそこまで進まない方がいいという判断も出てくる。
むしろごく一部の人だけが進む訳です。
だから「得度したいんですけど・・・」というけど皆さんに実はすでに本山でやる得度とほとんど同じことしているんですね。
なんでそんなことするのかといえば第一に礼拝要典が三帰、三竟、三昧耶戒真言や発菩提真言を唱えるので、仏教徒になってもらわないといけないのが形の上の理由。内容的な理由は護法善神に守護してもらうには仏教徒であるべきだから…等々
でも一番はそれが仏教徒として「正しいこと」からです。
川崎大師様に入ったら御祈祷の前に三帰戒をちゃんとするんですね。来られた方全員に。これは本当に正しいことです。
素晴らしい!
昔は私もうるさく言って受戒はなかなかしなかったんだけど福田堯頴先生が「天台学概論」でも言うように天台は「戒」が命ですから。
「受戒」するといいことあるかって?
なにをいわれます。戒を受けること自体が最高にいい事でしょ。
他に何があるのですか?
言っておきますが在家戒受けてさらに一歩進み在家の行者になると現世利益がいっぱい来るとか、儲かるとか。モテるとか、いい会社や大学いけるとか、結婚できるとかは・・・・一切なし!直には現世利益はカンケイナシ!
余計なご褒美はありません。
だって修行者でしょうが。
ご褒美目当ての修行者なんてあるの?
ずっと前に色情因縁きついので得度して坊さんになればと結婚できるというのでしたんだという女性に会いました。
尼さんて結婚したい人が成るの?
フ~ン初めて聞いたね。
でも残念ながら私のあった時はまだ独身だというお話でした。今は知りませんができてたらいいですね。
まあ、それはさておき、あえていうならこれってお葬式と同じことですからたとえ子孫がお葬式をキチンとしてくれないとか、もう子供とか後が無い人はその点良いでしょうね。
私はこれからはお葬式じゃなく生きているうちに是非受戒をうけておくことを提唱しています。
自分の宗教的なことは人任せでなく自分でしておきましょう。
死んじゃってから、なんだかわからないお坊さんがこれまた訳わからないとこから派遣されてきたりする時代ですからね。
それでもまだこれはお葬式してもらえるだけいいですね。
無宗教がまるで教養人の証みたいに思っているこの国では・・・。
前にも言ったけどこういうところは日本人て極めて恥ずかしいね。
それから法律的には坊さんじゃなくても法衣をきてお葬式しても何の罪になりません。お経憶えて頭そって明日からでもできます。
どこかの宗派に所属していなくても僧侶だといえば僧侶なんですね。
戒名料金やお布施いくらもらってもサギにはなりません。或いはそういうのどこかで聞いてお葬式なんてアホらしいのでしないとか言う人もあるでしょう。
もう、そういうとこまで一歩というところにきていますね。日本のお葬式事情は。
仏教的に言えば頭だけは奇麗にそっているけど在家に及ばぬ僧侶なんて山ほどいる。
酷い例がまったくの偽坊主ですね。
私は頭そっていませんが一応は僧侶の端くれニセ在家かもと思っています。
この葬儀商売化の流れは残念ですが止められらないでしょうね。死ということを宗教的に捉えてきていない今日の仏教界では。
いってみれば信仰自体をなめていたツケが回ってきたわけだ。下手すればお寺以外葬式しちゃいけないなんてクレーム言うと独占禁止法で訴えられる時代が来るかも。

まあ葬式の話はそのくらいにして、さらにもうひとつ最も大乗戒の素晴らしいのは「戒体の力」でやがていつかは必ず成仏するということです。「戒なんて要はしてはいけないことの戒めでしょ。授からないでも勝手に守ればいいじゃないか?」と思うでしょうけど伝授によって初めて「解体の力」がそなわります。つまり受戒には仏祖伝来のマジカルパワーがあるのです。
だから極端な話、過去に人千人殺してしまっていても終いには成仏する。
受戒してもらってからロクなこと無いという人も中にはあるらしい。
つまり、これが業の洗い出しです。
恨むなら自分がやってきたことを恨みましょうね。そして辛ければ辛いほどに懺悔です。仏教の信仰はほかにありません。
でもおおかれすくなかれこれは必要なんですよ。デトックスですから。
これ無くして業の清まることなしです。
中には前世のもあるからそういわれても憶えがないかもね。
でも仏教は三世思想ですから過去世があって今がある。
過去世なんてあるの?と思いますか。
仏教的に言えば今生きていること自体が実は過去世がある一番の証拠なんですけどね。