金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

三昧耶戒真言と三昧耶戒の伝授はどう違うのか?

三昧耶戒真言というのは密教の御経本なら大体出てきます。
天台では珍しいけど聖天様の礼拝次第などはそうなっております。
だからオンサマヤサトバン。真言読みでオンサンマヤサタバンという三昧耶戒真言真言宗徒の方々なら誰でも皆唱えている訳です。
拙寺では講員になられる方に発菩提心真言と三昧耶戒真言の伝授をします。
先日、三昧耶戒真言の伝授と三昧耶戒伝授のちがいはどこにあるのだろうかという質問がありこれを考えてみました。
三昧耶戒自体は密教の戒律で眼目になっているのは不捨正法、不捨菩提心、不慳吝法、饒益有情の四つですがこれは不慳吝法があるので伝授ということが念頭にあります。
密教行者でないならありえません。
逆に三昧耶戒を受けた人は伝授資格ができるということです。
厳密に言えば阿闍梨になる資格の一つに当たるわけですが、阿闍梨でなくても三昧耶戒を受ければ所伝の方は伝授できるということになります。
ただここのところは三昧耶戒は単独での受戒ではなく、必ず潅頂作法の前にするのが通例の作法です。
昔は別にしていた経緯もあります。
園城寺の頼豪さんが朝廷にお願いしていたのが三昧耶戒道場の建立でした。
山門の邪魔で叶わないのを恨んで、護摩焚いて憤死し、ネズミのお化けになった話は有名です。
阿闍梨とは本来弟子を入壇せしめる資格を言いますから、阿闍梨も作れる。そして大阿闍梨という風になる。
これは三昧耶戒の受持だけでは無理で阿闍梨でなくてはできない。つまり入壇ということは阿闍梨ならではの所作でしょう。
ちなみに阿闍梨はアチャーリヤで教授者のことです。
そういう訳で三昧耶戒は阿闍梨に不可欠の戒であるのですが、在家の方が唱える三昧耶戒真言はどうなるかという問題です。
そもそも三昧耶とは元来が仏と我が等しいという考えであります。
三昧耶にはその開発に随って五段階あるといいます。
「第一三昧耶」は曼荼羅を拝見する段階、仏と等しいが形の上では仏縁に触れる最初の段階です。
密教者にとって仏画は大曼荼羅であり、法具は三昧耶曼荼羅梵字は法曼荼羅、仏像は羯磨曼荼羅であり単に一個の仏画、仏像、仏具ではないのです。それは顕教の見方ならそうでしょうが。
ここが一番最初の段階です。
「第二三昧耶」は得度、受戒など仏弟子になって、結縁入壇の段階です。修行の初門です。在家の方の多くは一応結縁をもって密教修行の最終レヴェルとします。
第三三昧耶は加行位でここから実際の行法に臨みます。四度加行などに臨むくらいです。密教修行らしい三密を具備した修行です。
第四三昧耶は入壇の位でこれが終われば阿闍梨の位です。
入壇して密印を受けます。
第五三昧耶は瑜祇潅頂などの秘密灌頂の位です。このレヴェルは理事ともに語ることは許されません。
 
つまり、三昧耶戒真言の伝授は「第三三昧耶」の得度や受戒に当たり、戒体を備えた形としての三昧耶戒は「第四三昧耶」に当たるのだと思うのです。
三昧耶戒真言の伝授は第二三昧耶の得度、受戒に当たりますからこれは密教修行の入門であります。