でも聖天様は怖いのであえて信仰しないで毘沙門天様を信仰してきた。
それが最近になってまた聖天様がなんとなく気になるのだそうです。
聖天様は聖天様。毘沙門様は毘沙門様の良さがあります。
聖天様信仰したら毘沙門様に悪いかな・・・・。
或いは折角そういっているのに拝まないと罰当たるかな?
そんなことありません。
こうした場合、要は自分にとって聖天様の信仰が必要か否かです。
この自分にとって…というとこがミソ。
別に信仰しないと罰が当たるとかはあり得ないです。
仏教では神仏はあくまで我々の指導者です。
不成仏霊か何かじゃないので、たとえ拝めというお告げでもそれは神様の都合だけで拝んでくれ~というのはないのです。
面白いことに聖天様と毘沙門天様はどういうものか、聖天様を拝もうと思っていたけど、何かの理由で毘沙門様を拝み出し、そしてまた聖天様という人が結構います。勿論そういう人でも毘沙門天信仰は持っている方が多いです。この二尊は裏でつながっている感じ。
三カ所とも参るという習慣がある。
一方で聖天信仰は浮気(よそにお参りすること)は禁物という俗信というか迷信もありますがこの三つはオーケーみたい。
で聖天様はどうかというと・・・・熱心に頼めば他人からぶんどってでも福を持ってくる魔神のような天尊と思っている人が多い。
此処がそもそも大間違い。
それは常随魔ビナヤキャの特性。
聖天様にだって毘沙門様と同じ衆生利益や仏法興隆の心が大事なのは当たり前です。
「聖天さんならおもいきり、毒々しい願いをかけていいんだ!」というむき出しの自分を見てみろ!というだけのこと。
そこに人としての品性があらわになる。
そんな仏教の信仰はあり得ません。
だから聖天信仰を卑しい信仰にしてはいけないのです。
聖天様だけじゃない。
弁財天でも荼吉尼天でも大黒天でも皆本当は同じです。
どちらが表になるかだけの違い。
行きつく先は同じなのです。
当然でしょう。どちらも仏法守護の神なのですから。
でも個性がある。この個性によってどちらを表にするかは違います。
聖天様の神変不可思議な働きは全て即身成仏に至る道。
毘沙門様の御利生も「得入無上道即成就仏身」のために至る道。
どちらも拝みたいけど・・・と悩む人は悩む必要などありません。
むしろどちらかを表にして両方とも信仰するといいように思います。
バランスが取れていいと思いますよ。
当院では中尊の十一面観音に飯縄明神、毘沙門天を配し、観音の別徳として聖天様を奉安しております。
かたや聖天様や飯縄様のような動物のお顔の天尊は原初のエネルギーを背景とした「自然」そして天衣無縫の自由で無邪気で囚われの無い、本来の「うまれたままの本能的自己」を表わす存在だと思うのです。
どちらも大事です。