金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

聖天様と毘沙門様

毘沙門天様を信仰していたのだけど最近聖天様が気になって・・・という人からお話がありました。何でも霊感的な人で昔、聖天様から「私を信仰せよ」といわれたそうです。
でも聖天様は怖いのであえて信仰しないで毘沙門天様を信仰してきた。
それが最近になってまた聖天様がなんとなく気になるのだそうです。
聖天様は聖天様。毘沙門様は毘沙門様の良さがあります。
聖天様信仰したら毘沙門様に悪いかな・・・・。
或いは折角そういっているのに拝まないと罰当たるかな?
そんなことありません。
こうした場合、要は自分にとって聖天様の信仰が必要か否かです。
この自分にとって…というとこがミソ。
別に信仰しないと罰が当たるとかはあり得ないです。
仏教では神仏はあくまで我々の指導者です。
不成仏霊か何かじゃないので、たとえ拝めというお告げでもそれは神様の都合だけで拝んでくれ~というのはないのです。
面白いことに聖天様と毘沙門天様はどういうものか、聖天様を拝もうと思っていたけど、何かの理由で毘沙門様を拝み出し、そしてまた聖天様という人が結構います。勿論そういう人でも毘沙門天信仰は持っている方が多いです。この二尊は裏でつながっている感じ。
関西では生駒の聖天、清の荒神信貴山毘沙門天の三所参りが一組です。
三カ所とも参るという習慣がある。
一方で聖天信仰は浮気(よそにお参りすること)は禁物という俗信というか迷信もありますがこの三つはオーケーみたい。

毘沙門天様は至ってマジメな神様です。「毘沙門天王功徳経」では衆生利益や父母孝養や国土豊饒、興隆仏法等の善心が無いと毘沙門天の福はもらえませんということになっている。
で聖天様はどうかというと・・・・熱心に頼めば他人からぶんどってでも福を持ってくる魔神のような天尊と思っている人が多い。
此処がそもそも大間違い。
それは常随魔ビナヤキャの特性。
どちらも本尊は同じ大日如来の等流法身ですから片方はいかにも護法の善神的で、片方はアラジンのランプの魔神のようでも心は同じです。
聖天様にだって毘沙門様と同じ衆生利益や仏法興隆の心が大事なのは当たり前です。
「聖天さんならおもいきり、毒々しい願いをかけていいんだ!」というむき出しの自分を見てみろ!というだけのこと。
そこに人としての品性があらわになる。
そんな仏教の信仰はあり得ません。
だから聖天信仰を卑しい信仰にしてはいけないのです。
聖天様だけじゃない。
弁財天でも荼吉尼天でも大黒天でも皆本当は同じです。
どちらが表になるかだけの違い。
行きつく先は同じなのです。
当然でしょう。どちらも仏法守護の神なのですから。
でも個性がある。この個性によってどちらを表にするかは違います。
顕密二教の心でいうなら毘沙門天には顕教的な良さ、聖天には密教的な良さがあります。
天台の教えでは敢えて申せば八万四千の法蔵を秘めた多宝搭を掲げる毘沙門天法華経をはじめとする顕教の守護神の代表とされています。
聖天様を信仰している人は毘沙門天信仰から、根本的な仏教本来の信仰の在り方を学び、毘沙門天信仰をしている方は聖天信仰から自由でおおらかな密教的な心を学べると思います。
聖天様は密教でないと理解できないところがある天尊です。顕教にはないものがある。まあいってみれば大日経の三句の法門そのもの。「方便」を持って至極となす世界です。
聖天様の神変不可思議な働きは全て即身成仏に至る道。
毘沙門様の御利生も「得入無上道即成就仏身」のために至る道。
どちらも拝みたいけど・・・と悩む人は悩む必要などありません。
むしろどちらかを表にして両方とも信仰するといいように思います。
バランスが取れていいと思いますよ。
当院では中尊の十一面観音に飯縄明神、毘沙門天を配し、観音の別徳として聖天様を奉安しております。
私の考え方として毘沙門天は鎧兜に身を固めた天兵の長という「役割」を持ち、吉祥天、禅尼師童子という妻子があるり、いろいろな学びを得た社会的な自己」を象徴する存在でもあります。
かたや聖天様や飯縄様のような動物のお顔の天尊は原初のエネルギーを背景とした「自然」そして天衣無縫の自由で無邪気で囚われの無い、本来の「うまれたままの本能的自己」を表わす存在だと思うのです。
どちらも大事です。