金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

光明真言と飯縄様

今日は十数年ぶりに兄弟弟子のお寺に行きました。私の知らないある法を伝授して貰うのが目的です。
授けてもらいたい法が二法あり、彼から授かったもののしばらくやっていないので忘れそうな法が一つありました。
実はこの法は二つとも密教の諸法では最も上位にある法なんです。
この法やったらこれを越える法はない。
だからこそ今まではあまりやりたいと思わなかった。
なぜならそういう圧倒的な法があると「じゃあほかの法の存在意義って一体どうなのかな?」と想ってしまうので・・・・。こだわり過ぎと言えばそうですが「そういう考えが密教的ではない」とどこかしらで思っていたのですね。
其々には相対的にそれぞれの良さがあるのが本当で、「これが最高の法」なんていうのはいわば方便で言葉の遊びと思っていました。
例えば最高の印だの最高の真言はなんですか?教えてくださいなんて訊かれても馬鹿馬鹿しくて答える気にもならない。
例え、いうにしたって合掌して「ア」とだけいっておきなさいとかいうのが妥当なとこですから。
でも今日伝授を受けてわかったことは本当にこの法を最高たらしめていているのは事相ではなくむしろ背後にある教理なんですね。それが素晴らしい。
だからこの法を知れば本当は諸法が活きてくるのだというそうです。
俗にこの法を修すれば五百由旬の全ての法験、功徳は奪われるというのですが、これは実はその逆説的表現なのではないのか?とさえ思う。
何でもろくに知らないでものは言えません。それじゃ机上の空論ですのでまずそれも今回やってみようということに・・・。
ちなみに振り返れば「宇賀神王修儀」などにも同様の思想はみられます。
だから一切法成就の功徳が修儀にもある。
薬師如来法や孔雀明王法などで他にも確認しておきたいことが色々話題に出て実に楽しい時を過ごしました。
彼は比叡山の研究機関にいたので、私のような在野の自分のやり方でやってきた人間と違い、台密正統の深い知識があります。
その中でたまたま光明真言法の話になりました。
光明真言法は秘法ですが、その秘法たる所以は本尊を秘することがあります。
ふつう大日如来が本尊というのがオーソドックスですけど他にもいくつかあります。
そのうちに不動明王があげられると聞きました。
ほかはともかく不動明王というのは正直に言って初耳でしたが思うところありこれは大変納得しました。
それというのは飯縄明神の次第には光明真言がよく出てくるからです。
どうも飯縄様は光明真言が大変お好きなようなのです。
そこで思い切って最近は本尊真言を光明真言を主に念誦していました。
そうすると喜んでご嘉納がある。
いかなる真言念誦をしているかのは参詣者は気が付かないけどこの前の護摩もそうでした。
やはり飯縄様は大日如来の化身でもあり不動明王の化身でもあるのですから光明真言がふさわしいのでしょうね。
抑々、明神や権現は本地あっても存在ですので、例え和製真言があっても和製の真言より本地の真言を唱える法が概ね喜びますね。
折角独自の真言があるのだから、気持ちの上ではそれを使いたいですがこれは実際拝んでみて私はそう感じました。
勿論、和製真言などインチキとは全く思いません。
どこでどうできようが真言真言です。
お経もどこ出成立したものだろうと要は内容の問題ですから全然関係なし。「疑経」というのは私には死語です。

真言に話を戻すと祈願はともかく、少なくとも法楽や供養としては本地の真言を誦すのるがよいみたいですね。
自分が感覚だけを頼りにやっていたことの裏が取れてそういう意味でも満足の壱日でした。
もちろん今日、伝授してくれた彼にも大感謝です・!