金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

仏法興隆

最近在家の修行者希望の方がよくいらっしゃいます。
昔は仏教は信者になるか・・・坊さんになるかだったけど、そういう坊さんにはならないけど修行したいという人が出てきた。
これはとってもいいことだと思うのです。
うちは講員になるとき皆に仏教徒の五戒を授けますから、希望者は宗派に届けてそのまま在家行者として修行してもらうという感じです。
一応法名とかつくけど、実はこのレベルは在家つまり居士仏教です。
信者に当たる優婆塞、優婆夷というよりは少し専門的な修行者です。
こういうやる気ある人の存在は坊さんにとっても啓蒙になるしね。
仏教は密教のようなイニシエーションのある祈りのスタイルの問題を除けば、私は拝む人。私は信じる人という区別は本来ないものと思うのです。
信じると祈るは一つじゃないとインチキです。
今は祈る側の僧侶が仏を信じないで、信じる側の信徒だけが取り残されているケースもある。
これは坊さんにならなくてもできること。
そもそも坊さんも職業ではないんですよね。
そういうライフスタイルです。
もともと生計のための経済活動ではないんです。
だけどそこがそう行かなくなってきている現実がある。
だからこそ、そこは坊さんになるとかでなく、純粋に修行したいということなんでしょう。
其れ正解です。なぜなら仏教は行じないと意味ないんですね。
信じてるだけじゃ意味ない。
別に信じているとか、崇め奉るというと喜ぶ神様とかの宗教じゃないのです。そんなことしたって仏様はよろこびゃしません。
仏教では信じないと罰が当たるから・・・信じるなんて言うのはナンセンスです。
もうそういうバカな布教はどこもしていないでしょうと信じたい。
でも万一信じないと罰が当たると言われたら絶対信じない方がいいんですよ。
脅迫ですから。仏様はそんなことしないでしょ。
ニセモノです。
仏様が言いたいのは菩薩行をしてくださいということ。
日本仏教の母山である比叡山延暦寺を開創された伝教大師様はわがために御経を読んでくれるな。仏像も作るなと言われました。
道心ある人を西(仏教)には菩薩と称し、東(儒教)には君子と称するともいわれた。
だからぎりぎり言えば、仏教という宗教的なスタイルよりも道心あることをさらに上に置かれた。
だから実践が大事なんです。
そういう人が増えてくるのが本当の仏法興隆ではないかと思う。
ご利益欲しいから手を合わせて祈る人が何百万人いても、本当の意味からいえば仏教興隆とは言えない。
もちろん祈る気持ちは尊いけどこれは神道でもキリスト教でもそこは一緒のことですから。
仏教の独自性が生かされなければ仏法興隆とは言えないでしょう。
各々が人生のために仏教を学び、実践する。
そういう方が増える。
それでこそ仏教興隆だなと思うのです。