金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

御経も読むべし、真言も唱えるべし。

お経本はどこをよめばいい?という質問を受けますが、本当は全部読むのです。十一面様なら十一面様。聖天様なら聖天様、飯縄様なら飯縄様の部分を全部読むとちょうどしっかり精神が統一されるよう作ってあります。
よく「そう言うのじゃなく修法みたいのしたい」という人いるけど、個人の祈願はこれで必要十分なのです。
これは胸張ってはっきり言えます。
それは在家の方が相手だからそう言うんじゃないんです。
私も同じです。
普通のお勤めで祈願が叶わないから・・・というので自分で修法のマネゴトしたところで叶わないものは叶いません。
自分の祈願には基本的に密教修法まではいりません。
だから普段の修法では祈願が依頼されていない場合は信徒様と道場の安全とお供養としてするだけがほとんどです。
でも読めば読むほど効果があるとかで読むのでは無く、また仏様のために読んであげるのでもありません。
そこは間違えてはだめです。
自分のために読むのです。
別に読まないからと言って罰など当たりません。
なぜそれが大事なのか?

読むことによって自分と仏様のコンタクトがとりやすくなる。
距離が縮まる。ここが大事なんです。
仏様と距離が縮まらなければ仏教の信仰にならない。
同時に距離が縮まれば祈願も通りやすい。
お経が覚えられないなどというのは「いいわけ」です。
憶てくださいとは誰も言っていない。
経本見てよめばいいんです。それだけ。
忙しくても重要と思うなら読めるはず。
最初はたどたどしくてもなんでもそれはいっしょです。
お勤めも全くしないで「ご利益が薄い」などという人の話はお話になりません。
そんなの聞いていられません。
そういう人はうちの信仰はしても無駄です。


「ご祈祷」は私がするけど、「信仰」は私が代わりにするんじゃない。自分がするのです!
寺がするのは祈願のみ。信仰をするのはご本人です。
そう思わない人はさっさとうちの信仰はやめたほうがいいかもね。
そういう点はうちは辛口ですので。

だから法力依存型の人は苦手です。
たずねてこられて「法力あるでしょ。だから、先生に頼みたいんです。」って人もいる。
どこで聞いてきたか知りませんが、有難迷惑のかいかぶりです。
「わたしゃ貴方の言う法力なんて、からきしありません。」
大体「法力」って「法の力」ですよ。
行者さんの力は「功徳力」です。
まあ、白状すると実は功徳力のほうも全然大したことないですけど・・・・。
でも信仰する人の功徳力も大事なんですよ。
そのためにはお経も読むべし。真言も唱えるべし。
だって叶えたいのは自分の祈願でしょ。
私の祈願じゃないんですよ。