よく寺の後にしか寺は建たないといいます。
まあ新寺建立ということもあるけど、そこはもとはといえばやはり寺やそれに関する土地だったりすることはよくあるようです。
私のところで修行した直門の人たちに私は常々集まりを持ちようにすすめています。
私のところも含めて、どれももともと在家の人間の始めたことで寺や教会とはいえ、皆いずれも規模は人家の域を出ない広さなので、集まりはやりにくいのですが、それでもやらないと「寺」にならない。
寺には寺というフィールドが必要です。これがないと寺ではない。
それはつまり、「ここはお寺」という共通理解によって形成されるのです。寺とはいえ、いつまでも個々人のみを個別に相手にするのみなら、それは行者対信者の空間にすぎない。
つまり本当の意味で寺にならない。
これではどんなに、盛況でも拝み屋さんなのです。拝み屋さんというのがよくないなら長くなりますが本尊よりも自分の顔やネーミングを表に出している祈祷師さんのことです。
でも、これはこれで悪いというわけではない。
霊能者の先生とかいうのは皆そうですね。
しかしお寺ではないのです。
来られる人も先生のネーミングや霊能力は知っているけど本尊なんか知らないんですね。あくまで個別に対処していくのみ。
そういうところ行くと「何様を拝め」などというようにその都度指示が出る。客も「何様を拝んだらいいですか?」とか「どこの神社に行けばいいでしょう?」とか聞く。
お不動様とか観音様という基本的に決まった本尊はないんです。
そこでもって、たとえそういう方であっても改めて本尊を決めて祭礼をすることでそれがはじめて「寺」という空間になるのです。
だから皆が集まっての祭礼はとっても大事なんですね。
規模は関係ないんです。
私は祭礼のような人寄せが苦手で、勿論本尊は決まっていますが「祭礼なんてしなくても拝んで人が助かりさえすればいいではないのか。」などと若いうちはそう思っていました。したが、飯縄様は「祭礼はせねばならぬ。お前にはその大事さがわかっておらぬ。」とお叱りがあったことがあります。
いくら一所懸命に御祈祷していても祭礼がないとそれは宗教というカタチにはなっていかないのです。
これは叱られてもすぐにはわかりませんした。バカですね。私は。
結局、飯縄様が言われたのは一対一の行者稼業だけでは、それは「お前の顔」で仕事しているだけだろう。寺なら本尊と皆をつなぐ場が必要不可欠であるということだったと解釈しています。
そうでないとお寺の顔が「本尊の顔」ではないのです。
霊能者や有名祈祷師と祈祷寺院のちがいをあえていうとそんなとこでしょう。(霊能者なんかはそれでいいと思うけど・・・)
私自身のその経験から、それを事あるごとに言っていますが・・・どうもその大事さが。弟子達にもかっての私同様身に染みてわからぬようで困ったものです。師匠がバカだから弟子もバカなのかしら?(笑)
否、私の教育の至らぬためというほかありません。
いったん寺になれば、そこにはフィールドができるのです。
そうすれば結界が自然とできます。フィールドには必ず結界がある。
結界があることがフィールドの形成と同義です。
それが無ければフィールドといえない。
そのフィールドは本尊と、信徒の本尊への信仰を核とした集合無意識体だと考えていいでしょう。極めて強うパワーを持ちます。
大きくなれば門前町なんて町やとおりまでが結界に入る。
聖地というのはまさにそのようにしてできているのです。
たとえ、しばらく空き寺になっていたり、継承者が不在であっても、ひとたび再開すればそれが始動しだすのです。
フィールドは容易には消えません。
本尊にも空間にもスイッチが入る。
空き家に人が来て電気水道やガスが通るような感じ。
だから長い間開いていたお寺の始動はフィールドの回復からしないといけない。
スイッチが入ればすべてがまず元の通りに動こうとします。
まず、それがわからないで、なんでも今から始まったように誤解すると必ず失敗します。フィールドの手痛い反撃にあいます。
故今東光老師の本で紹介されているある聖天様のお寺を継いだ方の話。
その寺は結婚してはいけないという話です。
聖天様が怒るという。
そんなの迷信だと言って結婚したら奥さんが死んでしまった。
後添えもらったらまた死んだ。
そういうことがおきます。
これは結婚自体がいいとか悪いの問題とは違うのです。
寺のフィールドに組み込まれた情報に結婚してはいけないというのがあるのです。
じゃあ、それはどうしてできるのか?そのような誓いを立てて行をしてきた住職とそれを是とする寺のフィールドなのです。
ここを間違うと「そんなのは迷信」とか「そんなのは不都合」で改変しようとして失敗を見る。
だから慎重にしないといけない。
目には見えないものがすでに眠っているのです。本尊も寺のすべても。
それをまず大事にしないといけないのです。
それは私の師匠にも話にきいたことがあります。
「霊能などなくとも謙虚さがあればそれがわかるはずだ。」と・・・