金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

映画「サメ」を見て

おととい「鮫」という映画をテレビで見ました。
真継信彦氏(1932~2016)の処女小説です。私はこの作家さんは全然しらなかったけど宗教小説が多い方のようです。この小説は文芸賞をとり、数々の文芸作品を書いてのちには姫路獨協大学の教授までになる。
他にも一向一揆共産主義活動などを多く題材にしています。
マルクス主義の宣伝そのもののようなプロレタリアート小説なんかは全く読みたいと思わないけどこの人のは共産主義題材ののものも読んでみたいですね。
共産主義活動の組織の中にも上下の隔たりなどの苦しみに着目した作品があるようです。
格差とは社会的なものばかりではないのです。ただ、何とかできるのが社会的格差だけだということです。

話の内容はサメとなずけられた北陸の流人の若者が文字通り鮫を捕って暮らしていましたが、それも全てほとんどを強欲な網元に巻き上げられ、鮫の頭とはらわただけを食べて生きていました。
日頃から蔑まれ、いじめられた挙句、ただ一人の身内だった母をも殺されたサメは、京都で偉い坊様が流人救済をしていると聞き、都にあがろうと決意します。
上京の途中、同行の老人も死に、人肉を食べながら旅する女や親子の食べ物をめぐる殺し合いなどの恐ろしいありさまを体験しながら、やっとのことで上京しますが、そこにはもう室町幕府も衰退しすっかり荒れはて都の姿しかなかったのでした。
日々の食べ物さえもなく、やがてある男と出会ったサメは盗人となっていきます。
ついにはその男をも殺し、足軽で出会った仲間と徒党を組んで日々、殺人、盗み、強姦などの悪事を繰り返してゆくようになるサメ。
彼はそんな荒み切った毎日の中ふとしたことである尼僧にであいました。
彼女は蓮如上人の娘でした。
狼藉にもたじろがぬ尼僧を見てサメの中で何かが変化する。
尼僧は「何でも好きにするがいい。ただ南無阿弥陀仏とあなたは唱えることになる。」といいます。
折から統制の失われた京の都では寺々の鐘がバラバラに鳴り響き、サメの耳にはその時聞いた鐘の響きが、その時からどうしても耳から消えないのでした。
ついには再び尼僧にあいたくてどうにもならなくなるサメ。
彼は尼僧を追って故郷の北陸路に旅立ちます。
そしてついにサメは尼僧に出会い、あの時、彼女が狼狽しなかったわけを聞きます。
「どうしてあなたは自分を恐ろしく思わなかったのか?」と。
尼僧は言います。
「恐ろしくないわけがありません。だから自分はひたすら鐘の音を聞いて耐えようとした。
そうしていたら、そのなかの一つの鐘の音を聞いているうち、不思議にもとても静かな心になり、そなたに抱かれても、まるで御仏に抱かれているような温もりさえ伝わった来た。
そしてその時に初めて本当に心から念仏できたのです。」と…
ここの所は「宗教的回心」つまりコンバージョンということです。
宗教的な内的神秘体験です。
サメは茫々と涙しながら尼僧を負ぶって北陸路を蓮如上人のもとに急ぐのでした。
…これは信仰が無くてはわからない世界です。
「良く描いたものだ。」と思い感心しました。
現代のバカな意見が横行する世の中では、たぶん説明不足だとか、わけわかならいと酷評されるでしょうね。
情けないことに世間が映画を「芸術作品」として見られなくなっているからです。あくまで娯楽提供のサービスでしかない。
映画評論もそういう立場の大衆の機嫌取りのようなものが多い。
リードするものが何もない。
そういう意味では小説だろうが、絵画だろうが芸術としては死んでいるのが現代だと思う。
必ずしも作品が悪いのではない。見る目のない世の中なのでしょう。

だから製作費が何億だの、あの俳優、女優が主演だというようなことばかりが強調される。

当時でさえ大変優れた高度な宗教映画ですが、それゆえにただ見にいっただけの特に信仰のない多くの人にはわからなかったのではとも思います。
或いは宗教とはそうしたものか?と思ってみたか…。
この内容は浄土真宗のみならずすべての宗教に通じるテーマだと思います。
事実映画の中でも法華信仰の面々が太鼓を打って題目を唱えながら行進していくのをサメが「太鼓を打って何がわかるというのだ!?」とののしる場面がありますが、これは法華信仰への批判ではなく、サメの宗教への芽生えの第一歩でしょう。

ただ、文芸賞をとったことが幸いして映画にまでなった。
こういう作品はもう描かれないのでしょうか。
最近は昔の映画作品を見て唸るようなことが多い。

今は亡き中村錦之助さんの主演で、若き日の三田佳子さんが尼僧です。
一見の価値ある映画です。