金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

弱い自分と強いお不動様ではどこまでも平行線

今日は遠くから修行者志望の方が来ました。
で、どうして修行したいのか聞いてみた。
「悟りを開きたいんです。」
「悟りを開く。…開いてどうなりたいんです?」
「悟ればこの世の中が苦しくなくなると思うので・・・」
ということは世の中が苦しいんですね。この方は。
確かに厭離穢土はひとつの煩悩を退治する「よすが」ではあります。
でもそれは苦しみが無くなるとかじゃない。

聞けば、そもそもこの人の兄貴というのがロクデナシで昔から暴力、暴言の洗礼を受けて育った。それでも田舎の悪い癖で長男だからと大事にされてこの人のことは考えてもらえないそうです。
今やその兄貴は結婚して外に出て二親のお世話を当人に押し付けて得々としているらしい。それでいまだに何かにつけてあえば馬鹿者呼ばわり。
そりゃあ生きているの辛くて嫌にもなるわな。
「でもね、そういう苦しみって修行しようが悟ろうがなくなりませんよ。
たしかに法華経に劫尽きてこの世が大火に焼かれる時も我がこの土は安穏にして園林や諸の楼閣はあくまで美しく、天人常に充満しているというのがありますね。
でもそう言うのは苦そのものがなくなるんじゃなく、それに乱されぬ心の平和を言うのです。劫尽きて大火に焼かれるというように、大火に焼かれることは現実の苦を比喩で言っている訳ですね。そこはなくなるわけじゃない。
勿論、心が平和になれば夫れは外に現れて不可思議な霊験もありますが、行をすれば心が平和になるとは限りません。
それと、根本問題はアンタ自己価値が低すぎですね。」という話をしました。
いじめを許すのは自己評価の低さからなんだね。多くは。
どこかでいじめられても仕方ないと思う自分がいる。
それ駄目です。
子供時代、私は苛められたら倍返しという野蛮な方法で生きてきました。
でもそれをいささかの後悔もしていません。
今、子供に還っても絶対そうします。
子供の世界って一種の無法地帯なんだよね。
だから自分の身は自分で守らないと駄目。どこからも助けは来ない。
だから苛めなんてする奴は捕まえて倍ぶん殴ればいいと思うのが私の考え方。
我が身を抓ってもらって痛さを知らないとね。まあ、大人になってしまってからだと犯罪だから無理ですが、本当は子供のころに喧嘩してこの兄貴の顔を曲がるほど殴るとよかったんだね。負けてもそうするともう苛めない。損だから。子供の喧嘩というけど。子供だからこそ喧嘩は大事です、
私はほとんど全く喧嘩をしなかったことを後悔しています。喧嘩の大事さ気がついて途中から人格変異したように攻撃的になったけど、早くそうすりゃよかった。
もっとも大人になってもそれやっていたんじゃ、ただのバカですが。

自己価値の低さはいくら修業しても無駄。
それは実を言うとそういう方は自己価値が低いのが原動力で修行してるからなんですね。
すればするほどに逆に自分は下らぬものという確認にしかならない。
だから、修行する裏にはどこまでもとっても「くだらない自分」があるんですね。原動力として。
だからどんな理不尽なことされても怒れない。自分がくだらなく無価値で良くない存在と思っているから。
この人もそう。
そんな遠慮なんていらないんです。自分を守り、自分のしたいことをする。
ゴキブリやオケラだってそうしていますよ。別に偉くなくたって、自己嫌悪の塊だって、欠点の塊だっていいんです。そんなのどうでも。
それとこれとは別!
この人に「トラに人間がかまれるのと、ネズミが猫にかまれるのはどっちが大変?」と聞いてみた。・…黙っていた。
普通は人間というでしょう。
間違いではないけどそれは自分が人間だからでしょ。自分が鼠ならそう思わないはず。
だから「人間の生命が最高に尊いのは宇宙の真理」というのは大ウソです。
そりゃあ人間の立場でだけ言えること。「自分の生命が最も尊い」というのが真理です。それ以外に大事なものなんてない。
たとえ、あるにしても皆自分の変形、派生物です。
ゴキブリにあるのは我が身の命だけ。
だからゴキブリだって殺されるなら逃げますわな。
ゴキブリ自体は「私はつまらぬ虫けらだから殺されて当然なんです。」なんて思わない。
逆らう。
逃げる。或いは攻撃する。
それ正しい!
だから天地自然はどんな生物にも等しく生き残るための武器を用意しています。
だからあなたにとって大事なのはそんなクズな兄貴より、お父さんより、お母さんより、神様や仏様より、誰よりも自分なわけ。
だって自分の面倒を見る責任者は自分でしょ。
ほかのだれが見るの?
特攻隊で死んだ人だって自分が属する国に自分が愛する人たちがいる。
だからそれを守るために特攻機に乗る。
よその国の人なら乗るわけないわね
自分の国の「自分」というのがみそです。
自分を第一に考えないと修行なんかいくらしても無駄だよ。
そんな話をしました。
確かにその人、強くなりたい!とお不動様の信仰して真言念誦沢山したけど強くなれなかったという。・…そりゃあなれるわけないわね。
弱い自分だからお不動様を祈る。
そういう考えの信仰じゃ不動信仰するのは弱い自分という前提が消えないですから。弱い自分と強いお不動様、どこまでも平行線。
こういうのを第一に駄目だと言っているのが密教の三昧耶戒ですな。
おまけに邪教に凝っている兄嫁にまで般若心経あげてたら「あんたが不幸なのは変な信仰してるからなのよ。うちの信仰しなさい。」とまで言われたそうです。
今度そういわれら即「うるさい。人の信仰にいらぬ口出すな、クソ女!」と言ってやれと言っといた。
最期に加持祈祷ならぬゲシュタルトの祈りとタイムラインのワークやって終わったけど、来た時よりは大分元気になった。
まあ、彼の戦いは始まったばかりですが・・・。
貴君の健闘を祈る!(敬礼)