金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

准胝とは


准胝とは「チュンデイ」の音をそのまま写したもの。当て字やね。
この言葉は女神様の名前だのなんだのというけど一説には「清浄」の意味を持つといいます。
法華経でも六根清浄といいます。
清浄とはどういうことなのでしょう。
無菌状態のことでないですよね。

だって水清ければ魚棲まずというでしょう。
そういう清浄は偏狭の別名
容れることなき清浄。排除の清浄。
そういうのも清浄だけど…これは仏教の清浄じゃないね。
そういうのってしまいには周りに誰もいなくなる。
峻厳と孤独だけが残る。
仏教ではこの修行の在り方は縁覚行とか独覚行といいます。
だとすると、それって大事なの?
ウ~ン・「自分は人とは違うぞ。」っていう自己満足だけは残るね。
孤高というやつですね。
自己満足こそ一番大事なので、それもいいけど・・・
それ本当は自己満足じゃないね。
他者との比較があるので。
つまり、排除する清浄には排除する対象がないとダメでしょう。
そういうのがないのが本当の「自己満足」じゃありませんか。

少なくともそういう清浄さは准胝様の清浄じゃない。准胝様の清浄は不浄を嫌わないんですから。
だからいわゆる「不浄」に対する「清浄」ではないんですね。
不浄に対立する清浄じゃないんです。そこミソです。

だとすると…果たして「清浄な心」とは何か?難しいね。
イメージ的な感じですが、色々解釈はあるでしょうね。
ひとつじゃない。
でも私的に言えば「あえて自分のために人に犠牲を強いようとせぬこと」かも知れません。

でもそれは同時に拒否であってもならない。
受けるものは受ける。
有難く受ける。
布施は施すも受けるも布施
奪わずして豊かに受ける。
その心こそ皆とともに居ながらも「清浄な心」でいられるように思うんですが・・・。