金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

「友罪」という映画を見て


昨日は浴油が明けて、そのあとはオフ。
一回見たピーターラビットを再度見ようかと思いましたが結局「友罪」という生田斗真瑛太佐藤浩市さんらの映画を見ました。

これは例の神戸であった少年による少年殺人事件を模した話でその犯人だった人間、高校時代、友を見捨てて自殺された人間、自分の子供が無免許で子供三人殺してしまった人間の三人が出てくる。軸は社会復帰した猟奇殺人犯と友人を見殺しにしたという人間のつかの間の出会いで芽生えた友情。

この映画見ていくとだんだん犯人だった人間に同情的になる自分を見出しました。
マスコミに暴かれたり、彼女に縁切られたり、同僚から気味悪がられる…どんどん疎外されていく。
最後に残るのは人を思いやる心、友の「友情」だけだなみたいな作品。
 
そもそもドラマとはみなそういう設定になっている。
例えば徳川家康のドラマだと徳川家康の感情移入し、石田三成の映画だと光成に同情的になる。
その果てにあるのはなんだろう。
それは自分です。
自分がずっと見てきた人間は自分の一部分になりやすい。わずかに時間の映画でもそれが起きる。
そして自分そのものなら完全にそうなる。
だから映画の中でいみじくも「これだけの酷いことをしたのになお、自分は生きていたい!」という叫びも出てくる。いっそ死んでお詫びなんてことは出てこない。
それが人間というもの。
この映画を見てつくづく人間は自分中心にできているのだなと思いました。
映画では何とか過去の悪事がばれないようにと思って同情してしまうその犯人。でも現実にそういう人が近所にいたらエーッツ、嫌だな、ってことになるでしょうね。絶対歓迎しない。
そこもつくづく身勝手。いや、当たり前というべきでしょう。
所詮人間は自分に引き比べてものを考える生き物なんでしょうね。
だから、そこは誰も責められない。
そんな中でも「友情」というのは唯一尊いのかもしれない。
良い人でも悪いことをした人でも友は友だわな。
そこはそう。
が、これまたその「友情」をただの都合のいい言葉にならないようにしていくのは至極大変ですね。