金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

共通了解を生きる


ちょっと前、ある男性人気歌手グループのメンバーが女子高生に飲酒させてキスをしようとしたということで話題になりました。
この問題結構長く取り沙汰されていました、
もう相手の家族や当時者同士で話がついているならもういいのではという人もいれば、いや、断じてあってはならぬこと、許してはならぬ! という人もいる。
私としてはどちらかというと前者ですね。
それでは正義が行われないでは?と怒る人もいるけど。

でも、正義って何だろう。

我々の気持ちを措いてそういうのがどこかにあるんだろうか?
世の中にはいろいろな「くくり」がある。
もちろん誰もが守るべき法律の存在もありますけどね。
でもこの場合、これが有名芸能人でないなら当人同士ではなしがつけばそれでいいということになるでしょう。
つまり「共通了解」です。
この人は有名人だからファンだの事務所だの巻き込んでなかなかおとし所が見つからない。枠が大きければそれだけ共通了解は難しくなるんですね。
法律だってそういう共通了解から出てくる。
他に出てくるところなんかない。

聖書だとかが欧米だと規範だろうけど、それを規範にしたのも、つまるところは欧米の皆さんの共通了解でしょう。
だから家族のルールから国連憲章まで全部が共通了解の産物です。
法律もそうだけどいちいち細かいことまでは知らないのが普通。
それって共通了解の委託の産物なんですね。
要するに立法府とそのメンバーの議員さんに委託しているわけです。

そもそも正義に絶対の正義なんてないね。
それ固定する方がいろいろ問題が出てくる。
大乗仏教では究極的に絶対悪は言わない。そこのところこの考えと通じている。少なくともほかの宗教のような捕らえ方とは少し違う。
だからこそなんであれ、許しに比重が重いんです。

たとえば仇討ちなんかは当時の世間での共通了解ではオーケーだったんだろうけど、いまはそうはいかないですよね。

クジラ食べるのは蛮行かどうかも共通了解でしかない。
オーストラリアではそうなんでしょ。
でも、牛なんかは食べてもいいんですね。オーストラリアの人たちの感覚ではいいんだね。
(江戸時代は日本ではほとんど人が逆に農耕を助けてくれる、ウシ食べるなんて・・・という認識でしたけどね。)
日本では「クジラを食べるのはいけない」に関してはそこまで共通了解じゃないかもね。
そこに正義があるのかどうかはよくわからない。
というよりおそらくそういう問題ではないんだと思うのですね。
今いったように正義自体がけっこう脆弱なものですし。
こういうこと言うとすぐに「じゃあ共通了解で人殺しがオ-ケーならそれでいいのか?」っていう人出てきそうですね。
そうでしょ。
オーケーでしょう。
死刑ってそういうことですよね。
死刑いけないという人もいる、死刑反対運動もあるけどそれだって共通了解に訴えていることに変わりない。
絶対いけないことも、構造的に言えば暫定的に共通了解に支えられているだけです。

しかしながら、共通了解といおうが正義といおうが所詮人間というものに対する信頼が基盤であることは同じ。そこがなければもう全部ナンセンスです。
だから人間同士の信頼以上の価値は社会にはない。

されど共通了解の世界は様々。
さきの捕鯨問題だって感情的なものだろうが理屈だろうが「捕鯨は良くない」という共通理解が広まれば、もう調査捕鯨だなて苦しいことしないでもいいわけです。
(クジラ調べるのに何頭も殺さなくてでもいいだろうよ。ライオンや虎の調査で殺すかね?)
私ですか?
クジラは美味しいと思うけどかわいそうだから捕らない方に賛成なだけです。(笑)