金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

密教修法の世界 六度供養


諸尊をお呼びしたらまずお接待します。
お水、塗香をお塗りし、花を飾り、お香を焚いて、お食事をお出しします。
そしてキャンドルサービスみたいなこともする。
この時すでに一体感があれば、全部自分で自分を供養する感じになります。

つまり自身自供養なのですね。
ここを誤ると単においしいものなど備えて歓心を買うことと勘違いします。
密教の供養はそういうものではないのです。
だから招請の時の観念が大事だと思うのです。
来ていただいたらもう自分の中に即入っていただく。
本尊がお座りになるお花の座布団もほかならぬ自分の心中に敷くんです。
その後に来る入三昧地や平等観はその確認だと思うのです。

以下は今月号の拙寺の講員様向け印刷物に出した話ですがテーマ的にいっしょですので参考までに出しておきます。


まじめに信仰されている方ほどお供物には気を使われるものです。
どういうものをどうあげようかと考え悩む人も多いと思います。
例えば毎日、毎日上げないとおなかすくんじゃないかしらと思う方もいます。そうなると旅行などの間はどうしたら…と思うのでしょう。
また、缶詰とかは蓋を切って開けないといけないのではないかというような質問もありました。実は密教にはお供物を上げるときに「普供養偈」というものを唱えます。
それは「我今奉献諸供具 一々諸塵皆実相 実相周辺法海界
法界即是諸妙供 供養自他四法身 三世常恒普供養 不受而受哀納受
自他安住秘密蔵 」といいます。
この中で大事なのは「一々諸塵皆実相」ということで、「お供物として挙げるべき世の中のすべての事物は皆、素晴らしい存在で仏とかけ離れてはいない。それは宇宙の隅々まで行きわたっている。だからどんなお供物もすべて、すでにそこに満ち満ちており、素晴らしいのだ。それは悟りの目で見れば永劫にわたって行われている供養である。
それをもって自分も他人も御仏も供養する。受けるも受けないもない、すでに納受されている。そして自他をして秘密の教えの倉に我らを安住させてくれるのだ。」という意味になろうかと思います。つまりお供物はすべて宇宙を体とする仏様のなかにあるのですからあげるもあげないもないのです。「四法身」といいまして聖天様も観音様も飯縄様もすべて一つの仏の現した姿にほかなりません。そこがわかればむしろお供物とは、めし上がるとか、めし上がらないといったものというより、仏さまに敬意を表す「荘厳」の意味であるとわかるでしょう。
これは食べ物だけでなく、あらゆる奉納が実は本来はもうすべてみほとけの蔵のうちにあるのです。仏に不足などないのです。逆になに一つ我々のものというのはありません。あげるもあげないもない。そう考えると、○○を奉納しますから代わりに是非、この祈願をかなえてくださいなどというのは愚かなことでしょう。信仰は心の誠を奉納して現すものであり、決して交換条件ではありません。本来は改めて本当に欲しいものなど御仏にはないのです。もしもあるとすればそれは清らかな真心のみでしょう。」
以上
お供物は実は菩薩の六波羅蜜を表現したものです。
だからここでは象徴的にしますが、同時に布施、持戒、忍辱、精進、禅定そして般若波羅蜜の知恵の修行もしていかないといけないんですね。
拝むことと六度の修行は相関関係にあり、六度練行と修法は互いに進めてていくべきものと思います。
これらはどれが一番大事とかもなければお互いがお互いの代用にもなりません。
あえていうとバランスが大事です。