金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

観世音菩薩の名代

 
「菩薩僧はすなわち菩薩である。
菩薩は天部の上に立って菩薩行をしなくてはいけない。
ゆめゆめ下から物乞いするようではならぬ。
御座主猊下のこの言葉は強く、強く師匠の心に残りました。

それで大福生寺に着いた師の第一声というのが実に振るっていた。

「皆さん、私は観世音菩薩の名代としてここに参りました。」

並居る信者はこの挨拶に驚いた。というより呆れたことでしょう。
藤本老僧も驚いたことでしょう。
「こりゃ大変な奴が来た。」

当時を私は知る由もないが、「生意気な!」と反感を持った古参の信者もいたようです。
まあ、普通考えれば当然出るべき言葉は「皆さまよろしくお願いします。ご覧の通りの未熟者でございます。ご指導ご鞭撻のほどを。」だと思っていた人も多かったはずでしょうね。
そのくらいの察しは私でもつきます。
だが、これを堂々と言うところがわが師、白戸快昇であった。
こういう人でなかったら私も白戸師匠の弟子になりたいと思わなかったかもしれない。
私も生意気でクレイジーなことでは人後に落ちなかったから。
こういう話聞いて凄いと思った。
 
さて、これだけ大きなことは言ったは言いましたが、信者さんは当時さほど数もなく、頂く俸給も非常に少なかったといいます。
そこで白戸師匠が拝んだのが得意の理趣分であった。
なにとぞ信者さんが集まりますように。
そうしたら立て続けに100巻読んだあたりから俄然、風向きが変わったそうです。
ボンボン人が来出した。
この理趣分というのは簡単なようですが大変な力のあるお経なのです。
思うに大体比叡山でご祈祷上手といわれる人はこの理趣分が皆、得手なようですね。
よく間違われるんですが、真言宗理趣経ではなく大般若経のうち第578巻目の理趣分というお経です。

天台では理趣経を読む習慣はないのですが理趣分は御祈祷で読みます。
私が尊敬するこのたび善光寺大勧進貫主になられた滝口宥誠大僧正もそうです。
滝口大僧正は日ごろ理趣分をよく読まれますが、ある日、別なお経がこれも大変力あることを聞いて100座拝んでみたが「あかん。やっぱり理趣分や。お経の浮気したらあかんな。」と笑って言われた記憶があります。
 
例の不動精神教会の大西先生も行者の常でなかなか臨終を迎えられず苦しんだそうです。
特に気の強い大西先生のような方は色々無理や無茶もしたでしょうから。
それで師匠が行って理趣分拝んだらすっと亡くなった。
 
理趣分には特筆すべきそういう功徳があります。私も何回も体験しています。
拝んだら最後の日にすっと元気になってベッドの上に正座し四方を拝んで感謝の言葉を述べて、それから眠るように亡くなった人もある。

拙寺の総代さんのSさんが亡くなった時はたて続けに三座読んだ。
それで無理にでも何とか命を引き戻そうとしたら、何か人影をたくさん感じる。
この時気が付いた。
「ああ、やっぱり…人の死はこうやってお迎えが来るものなんだ…」人にもよるのかもしれませんがこの方はもう大勢お迎えが来ている。

それだけ付き合いも広く、徳積んで色々人とかかわってきたのですね。
実際、この方は面倒見のとてもいい人でした。
私も大変にお世話になった方です。
きっとそういうことだと思いました。

そこへもってきて私が無理やり引っ張るものだから、みんな「なんだ。なんだ。」「この人わかってないね。」という風に黒い影がざわざわしている。

それで読み終わって壇から下りたら…今亡くなったという電話でした。

体験的に思うけど亡くなる人は本当はもう何日か前に魂抜けている。だから拝んでもスカスカ、豆腐にカスガイ的です。抵抗がないんですね。
こうなったらもう無理です。「拝んでくれ」と言われますが、拝むと業苦が収まって早く楽になる。つまり亡くなります。
それを言っておかないとかえって恨まれる。だから「何とかして!」というときは渋って拝まないこともあります。
勿論、ここまでいってない人の中には拝んで奇跡的回復をする人も沢山あります。

理趣分はそういう不思議なお経、有難いお経です。
 祈祷するにしても密教行法に劣ることなくいろいろ使えます。

まあ、そんなわけで徐々に人は集まり。こののち、白戸師匠は不思議な神通力をふるって隣接する部屋を増やすほどまで信者を集めることとなるのです。そのエピソードはまた別な機会に。
 
 
つづく