金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

死ぬということ


昨日の夜、古い法弟が訪ねてきました。
今地方寺院の住職ではあるが、そこは檀家はないので請負いのお葬式や法事をしているらしい。
そういうお坊さんは最近少なくない。
最初は何とも思わなかったらしいのですが、最近になってご遺体と出会うことを重ねるうちに「自分もいつかは死ぬのだ・・・」という実感がわいてきて本当に怖いという。
この人も霊感のある人ですが…今まで見てきたものは人の想念や気やなにかを誤解して霊だと思っていたのかもしれず。死ねばおしまいかも…という気にもなるらしい。
この気持ちわからなくもない・・・それだけ人の死の姿はインパクトあるんでしょうね。
釈尊もそれで王宮を出てしまったんですから。

「羽田さんは死ぬのは怖くないの?」と聞かれて…怖くないわけはないけど
最近は還暦すぎたせいか前ほどとも思わない。
加えて弘法大師の話をさせてもらった。
是れ実は何かの本に書いてあった受け売りです。
でも私にとっては死に対する見方が少し変わった。

弘法大師の言葉
三界狂人は狂せる知らず。 四生盲者は盲いなるらず。 生まれ生まれ生まれ生まれても生の始め暗く死に死に死に死んでも死の終わりに冥し。」

この話というのは、ある人が死ぬのが怖くて怖くて…たぶん、不治の病か何かでしたかね。
でもなにかのきっかけで弘法大師のこの言葉に出会って
「ああ。死んだらどうなるのかと思って怖がッていたのだけど、考えてみれば産まれる前の世界も知らないんだ。同じではないか。そこに帰るだけなんだな。・・・」と思うようになったそうです。
そうしたらそんな死に対する怖さもさほどでなくなった。

私は祖母と父の死を経験していますが、どちらも遺体にあって「ああ。旅だったんだなあ。もうここには本人はいない。これはもう抜け殻だ。人の死とはこういうことかあ・・」という感じが強く、その感じのほうが悲しみの感情よりメインだった。だからどちらも別れの悲しさはあったけど・・・
神道でカラダというのは「殻だ」身柄は「身殻」だと聞いていた。なるほどそうだと思った。極端に言うと丁度セミの抜け殻みたいに感じました。

まあ、とはいえ、だからいつ死んでも平気になるというわけでもない。
人間なんてそんなものですね。
死ぬ以上の恐怖はない。それは圧倒的。
生き物だからね、死ぬのが怖いのは当たり前。それでいいとも思う。
そうでなくてはとも思う。