神は汝らや我らと同じく体がある。汝らには見えぬというだけのこと。
三部の諸仏は仮の形あっても体はないのだ。
汝らからみた仏はそのまま我らはおろか、神々からみても同じような存在なのだ。
汝らは観音菩薩と稲荷が同じ祠にあれば、稲荷も観音も同じようにおわすとおもうだろう。
そうではない。
稲荷神からすれば観音はお前たちが仰ぐのと同じく目に見えぬ存在なのだ。次元が違う。
そこは仏に比すれば人も神も大きく変わらない。
仏に体はない。
同じように神祇であっても天照やアメノミナカヌシのような「天神」は仏と同じように形はあっても体は希薄といえよう。その意味で仏にやや近いかもしれぬ。
天満宮やお上(飯縄様のことをそう呼ぶ)は形もあれば体もある。
それ故、現世に強く働きかけることができる。
諸天部の尊も同じだ。
尊き御仏がおわすに何故、諸天善神を頼む?
それはこの故にほかならぬ。
さらにその下には現世に近い我ら眷属のようなものもおる。
(この後、愛宕権現を例にして非言語で教えてくれました。つまり勝軍地蔵と言われる権現には、体はなく、太郎坊という大天狗がその体の役割をしている。ゆえに一面、愛宕権現というと天狗神だといわれれてきたのだと。こういうのは一瞬にして情報がまとめてきます。)
わかりしか?
ただし、仏には体があると言ってもそれも汝らのそれとは大きく違うがな。
我は形も体もあるが「あずさ」等(風狐さんより下位のよく出てくる狐さんの名前)とも違う。
我は気のようなものだが形を成すことができる。
「あづさ」のような者は形を隠すことはできるがそれを消すことはできぬ。
しかし、これは汝の知る「無住所涅槃」のようなものにてはあらず。我も必ず居場所はあるのだ。
体はあるゆえな。
いずくに求めようとも体なくしてこそ仏と言えるのだ。」