金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

自分責めは懺悔に非ず

市川猿之助さん主演の歌舞伎「黒塚」を見ました。
美術的にも演劇的も非常に素晴らしい!すべてが青白い照明で月下の夜のこととして描かれる舞台です。

草深き荒涼たる奥州安達ケ原の一つ家。そこに阿闍梨佑慶率いる山伏の一行が現れ宿を乞います。
宿の主は岩手という老女。彼女は都人でしたが父が罪を得てこの地に追放され、夫も彼女を捨てて都に帰り、今はこの荒れ野に捨てられて老女一人の悲しき身の上。
糸車を回しながらと訥々と語られる彼女の身の上を聞き、阿闍梨は「どのような身の上も仏法に心せば必ず救いがある」と説きます。

この話にいたく喜んだ岩手は、「夜に老いの身で山野を歩くのは危ないからいらない」・・ととどめるのも聴かず「なんの、なれたる山路なれば」と彼らの暖をとるため、薪取りに山に赴くことに。
「ただし寝屋の一間はくれぐれも見てくれる」なと言い残します。

さて仏法の救いの尊さに感激した岩手は、月下の野に老いの身を忘れて舞って喜びますが、その間一行の従者が見るなという部屋をのぞいてしまいます。
そこはバラバラになった人の屍が・・・・かの岩手は妖魔であったか!

しかし岩手にしてみれば「聖とあろうものが約束を破った!もはや我が発願も破れたり。」
岩手は怒りのあまり本相の鬼女となって一向に襲い掛かる。

折角、救われると喜んでいたのに・・・そんな扱いをされるなんて!
これは大きな期待を裏切られてのショック!
それで自分がしてきた失敗や悪事も棚上げにして人を責める。
彼女にしてみれば旅人を殺してきたのは冷たい世の中への意趣返しもあったのでしょうね。
そういう人いますね。
無条件に救われると喜んでいたのに現実にしてきたことがわかると責められて「救いなど嘘じゃないか!」と逆上する。逆恨みです。

それは自分がようやく心の安住の場所を得たと思っていたのに、失敗や言動を注意されるとまたもや裏切られた。放り出されたと怒るのです。
だから一言、二言注意しただけで激怒してへそまげて自分は傷つけられたともうお寺にこなくなる人もいます。岩手と同じ心。自分で自分を常に責めている。だから人からそこをつかれるともうどうにもならない。
言い訳、屁理屈、逆上へと移行する。鬼女となる岩手と同じ構造。

此処に宗教的な救いとは何かという問題が存在します。
無条件の救いとは何か?

この演目は宗教的救済の失敗なのだろうか?
私はそうではないと思います。
鬼女となって荒れ狂う岩手は山伏の祈りの力にやがて我が身の浅ましさ恥ずかしさを知り闇に去るのです。

この「我が身の恥ずかしさを知る」ことによって岩手は鬼から人へと一歩近づくのだと思います。
自分責めは人を殺しながら岩手も十分してきたはず。
なのにそこには我が身を恥じるという懺悔がない。
自分責めは自分に対する言い訳です。そこには社会も迷惑をかけた人たちもいない。だから悪事は悪いこととは知りながら・・・も続けられる。
だからこういう人は迷惑をかけたと思っても謝れないんですね。
人にきかれれば初めて「悪いと思ってます。反省してます。」でおわり
しかし、自分責めでなく「恥を知る」というのは世間に対する自分の見直しです。

「懺悔」とは自分責めじゃなく、外に向かってのおのれを懺することです。
ひそかに人知れないよう自分責めだけしているのは逆に鬼女への道。

そして指摘されれば「オノレ!みたなあ~ッ」ということになのでは。