金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

当たり前のことが起きますように

受験シーズン佳境ですが…みなさんコロナウイルスのおそれのある中、東京や大阪、福岡や札幌、大都市への移動ご苦労様です。

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何とか希望に受かりたいと思うのは皆同じですが・・・最大級の御祈祷してもうかるかどうかはうけおえません。

「それじゃあ、意味ないだろ!」と言われそうですが、御祈祷としてもにわかに頭がよくなるわけでもはない。ましてや勉強してもいないことがでてくるはずもない。

 

御祈祷だけで受かるなら勉強しないで拝んでればいいということになる。

でもそんなことありえない。

御祈祷はつなげる力なんですね。

縁と縁を。

それは昔から男女関係でもいうように釣り合わないのは不縁のはじまり。

ふさわしい能力・資質の人がふさわしいところに行けるように祈るもの。

それだけ。

就職でも、求人でも、結婚でもおんなじ。

ほかは何一つできません。

なんだ。当たり前じゃないか!

そう当たり前のことが当たり前にちゃんと起きるよう祈るだけです。

それを「加持」という。

自行では仏と行者の加持

化他行では人と祈願対象の加持をする。

勿論仏がそこにも背景としてないと加持にならない。

加持の根本こそは仏の慈悲があるからこそですからね。

良く勘違いするのは「法力」って超能力みたいに超自然なことができると思うけど…そういうのはなにもわかっちゃいない奴の言うこと。我々の言う法力は本当のこと言えば「仏法の力」だから行者にあるわけじゃない。

伝奇小説のなかの神僧とかなら別でしょうけど。

極端な話、調伏祈祷とかもそう。正しい形に戻りますよう祈るだけ。

わたしのはそれだけ。

 

加持によって修正をする。そういうこと。それが結果、荒療治になる場合もあることはある。でも意識的にできることはなにもない。

間違いの誤差が大きいと加持の結果、そうなるだけ。

でも本当は弘法大師も不空三蔵もこの原理は変わらないはずです。

私はそう思っています。

その方々はそのつながる力「加持」がとってもパワフルなんだろうと思う。

だから裁判みたいな場合のみですね。祈るのは。

「にくい、死ね!」とか言うのは呪詛で仏法の調伏じゃない。

 

だから「恋敵、ひどい目に合わせて欲しい」とかいうのはやらない以前にできない。

いくらお金積まれても成績下から数えてすぐ見たいなら一流入学は無理です。

 

 

まさに仏の力とはそういうものだと思う。

あるべきものをあるべきかたちに。それだけ。