お釈迦さまがニッコリ笑って蓮の花をひねられた。文殊様だけが意味が分かって同じようにニッコリされた。
意味はいろいろ取りざたされますが要は釈尊と文殊菩薩の共通了解ということですね。
ある癌で悩む女性が山中に住むある禅僧に会いにいったそうです。
そうして「もう私じきに死ぬんです。もう怖くて怖くてどうしたらいいんでしょう。禅師さま。」と悩みを打ち明けた。
そうしたら禅師は「…別にアンタ一人くらい死んでもどうともあるまいよ。大丈夫じゃ。」といわれた。
それでガラッと視点が変わった。
自分が自分がという視点から離れてもっと大きい視点を得て。それで救いを得た。
そこには共通了解があったから。
禅師は一瞬にしてその人の器と機をみてとったんでしょう。
でもこういうことはかなり難しい、人を見て言わないと。
「なんてこと言うんだ!」と怒る人もいるかも。少なくともこの女性はそうではなかったが、この話を聞いた周囲の人はとなるとまた別かももしれません。
最近は生ぬるい事しかいわない。
いわないというよりいえるだけの器量のお坊さんがなかなかいないんでしょうね。私もようはこんなこわいことはいわんけど。
下手に言えばすぐに「人権蹂躙だ!」とか言いかねないからね。
聞くも愚かしい。
人権尊重は結構だけど、今の世の中はそれだから駄目なんだと思うね。
だから難しいんですけどね。
こんな難しいこと言ってくれる人誰もいない。
でもこういうことが人の機を見ていえないと生きた説法にはならない。
ただのとおり一辺の道徳や慰め、それじゃ本当には煩悩は切れない。
おもちゃの模造刀みたいなものです。刀に見えるだけで何も切れない。
真剣はすっぱり切れるが使い手がダメだと大けがになる。
生兵法は大怪我の基!となる。
こういうのは天台のお釈迦様の説法でいえば化戯の四教の内・秘密教にあたるのだと思いますね。
密教のことではないですよ。その人だけの特別説法のこと。