理趣分を読んだり、般若心経を読む。祈願の場ではものすごいスピードで読む。
「あれじゃ一字一句は発音してないよね。」という人いますがそのとおりです。
発音は正確にしていない。目で追って舌をわざかに動かすのみ。
でもリズムがあってスピードが落ちてる箇所はちゃんと声になる。
だからいい加減にむにゃむにゃ言っているように見えて実はそうじゃない。
私が習った時はゆっくり読み聞かすのは回向の時。これは故人や亡者が聞くのだからゆっくりがいい。
神々や諸仏は精神感応だから読み聞かす必要はない。
自分が神仏とつながるためにあげているんで、読みきかすためではない。
神仏はハイレベルだから意識でつながる。読み聞かす必要はない。
弘法大師は「般若心経秘鍵」で日本の神々のためにはこれを上げなさいと言われた。
漢文じゃわからないということですな。
大師の考えでは多分に実社の神霊のことも考えたんでしょう。
つまり明神や権現でなく仏教に振れたことのない神様。そういう人にはまず読み聞かす。
だから実類と権類でおなじ社でもあげ方は変える。
同じ稲荷でもキツネや蛇の霊を祭ったものはゆっくりあげてやる。
荼枳尼や明神はそうでなくてもいい。
だから祈願は早く上げる。(というより早く上げられるほど読めということでもある。)
もうひとつはゆっくりあげたら餓鬼やら亡者やらがそのお経の声を聞いて集まる。
面白いことにこういうのが先を争ってくると声が出しずらい。
喉にまで手を突っ込んでお経を得ようとする。ものじゃないのにね。
精霊供養なんかすると大勢集まるからあげづらいのなんの。(笑)
大峰なんかに行くとひだり神という餓鬼の一種がいる。ほかにも魔物もいろいろ。だからそういうのに感応しないためにはものすごく早く上げる習慣がある。
回向と祈祷では挙げているレベルも目的も違うんです。
霊能者はお経読むと霊が集まるから読むななんて言う人いるけど読み方知らないからそういうことを言う。坊さんのくせにそういうこと言うバカもいる。
最近は霊能者稼業の人が仏教のことはひとつも知らないでちょいと得度だけしてるようなので先生と呼ばれてるようなもいるからね。
自分じゃできてるつもりだからそういう人は勉強も修行もしない。
そういう奴が勝手なことを自分の愚かな考えで言う。
このては絶対がつくほど得度させない方がいい。
でもそんなに早く上げたら意味わからない。
そのために「読」の修行がある。あげるのは「誦」
読はお経をじっくり読む。お経の勉強です。
これを腹に入れておいて「誦」に望むとまた全然違ってくる。
修行は先ず上げること。あげて、あげて、あげまくり、あげるため慣れたら意味を探るため読む。
初めから「内容わかんなきゃ意味ないでしょう。」なんて言えば叱られた。
学者になりたい人は別だ。
そんなのはスラスラあげられるようになってからだ。
うちは今でもその方針。行が先。