仏教でいう慈悲はどこから来るんでしょう。
般若経の言うようにすべてが空なら人殺ししても空。
盗んでも空。
強姦しても空ではないか・・・・それでは慈悲はどこから?
もともと空なら空なるものが空なるものを殺しても意味はない。同じように慈悲をかけても意味ないのでは?
という人がいた。
この質問した人は極めてまじめな方でした。
仏法にケチつけようというのでなく純粋に疑問なんでしょうね。
それはそうなるね。空しいと読めば。
実際インドではそのような考え方の学派もあったようです。
ただしそれはもちろん仏教の考え方で言う空じゃない。
仏教でいう空は空しい意味ではない。完全な個我と言うものはないという意味。
この宇宙に中心はない。
中心があれば創造主とかだろうけど仏教はそう考えません。
仮にある中心が「私」と言う存在。
でも「私」って何?
常に水や空気や食べ物や温度、湿度で補われ維持されている私は宇宙(環境)と切り離しては存在えしない「私」。
そういうのを「解放形」という。
外界とつながって存在する。いわば外界依存で成り立つ。
これに対して閉鎖形、たとえば宇宙空間に存在する宇宙船は閉鎖形ですね。
だから窓があって開けたてとかはできませんよね。
そんなことしたら大変だ。
でもこの宇宙船にしたって地球から水や食料や酸素を積んで成り立つもので宇宙空間では閉鎖形だがもともとは閉鎖形じゃない。
時間的にさかのぼるならはじめから完全に閉鎖のものはない。
だから仏教の空はむなしいんじゃなく、閉鎖形つまり個我はなりたたないんですね。
皆、宇宙のお世話になっている。だからお互い様です。
密教ではそれを「仏仏加持」といいって表現しています。
皆、供養(加持)しあっている。
わかちがたく相手があって自分がある。それが曼荼羅世界。
虫一匹でも私がよって立つ環境を作っている大事な仲間です。
だから私同様に思いなす。
「あなたの命は私の命 私の命はあなたの命」
それが仏教の慈悲の根源です。
逆に私なんかは全然大事じゃなくて人さまが大事と言う「犠牲」はまちがった慈悲です。
自分に対する愛がそのまま外の存在に向かうことが仏教の慈悲です。