釈尊は凡そ最も大事なものとは己であり、己より大事なものはどこにもみいだせない。ゆえに自分以外の人や生き物においても同じなのだと思うべきだ。と法句経の述べられている。
するとそれは仏教でいう諸法無我とか本来自分は空であるという教えと矛盾しないか?という人は多い。
全てが無であり空なら自分にも他者にも慈悲など湧きようがないではないかという疑問だ。
そういう疑問はあって当然だろう。
まじめな疑問である。
若いころ、すべては空なのだという屁のような般若心経の講義を聞いて「このどこがありがたいのかな?」と思った。
「ありがたいわね~」などと言っているご婦人に聞いても「あんたには信心が薄いからわかんないのよ。」といわれた。
「そうかな?薄い厚いでなく、本当は何一つわかっていないからただ有り難いと言っているんじゃないのですか。あなたは。」と思った。(ま、口にはしませんですが・))
だが、これはまじめに考えるなら当然あることだ。
空にとらわれる間違いを「空執」という。
空の解釈に膠着して真実を見失う。
空を「もの」として実体化してとらえてはならない。
而してこの空とは「存在しない」という意味ではない。
存在は自己が知っている。
それを疑うことはオールナッシングだ。
それが幻影だとしてもそれこそが存在だ。
仏教の言う「空」とは因縁生つまりすべては縁と因との絶妙のバランスで存在するということだ。
完全な個としては存在しえない。
たとえば名画と言われるものも、そのモチーフだけが絵ではない。背景やその他の書き込まれたものすべてがあってこそ一幅の絵なのだ。
同じように我々を存在可能ならしめているのは他の存在により縁を受けているからだ。
ここに己を存在せしめる全てへの感謝もあり、また同じように存在する命に同悲もおきるのは当然だ。
私が存在するのは稀有なこと、あなたが存在するのも稀有なこと。
我は我のみして非ずだ。すべては分かちがたく一つ。
それを空という。