今日は福家英明長吏大僧正さまの忌明けでした。
長吏さまには大変お世話になりました。
大恩人です。
この思いは私だけでなく多くの人がその徳を慕い、その御遷化を悲しんだ方すべてのものです。
慈悲深く人というものを愛し 実に立派なご生涯でした。
知り合いでお葬式をするようになって死が身近で怖く感じるようになっというお坊さん
逆に人はおしなべてみな死ぬものということを改めて確認し死をそれほど忌まわしく思わなくなったと言う我が門下の僧侶。
死に対しての考え方はいろいろですね。
私は父が死んだときも祖母が死んだときも、ともに死体を見て「ああ、もうこれは殻になったもの。魂が去った抜け殻だなあ…」と思ってそんなには悲しくはなかった。
「生きるべき年取って亡くなった・御役目が終えたのだなあ・・・」
そんな思いがあるので私自身のお骨なんかもどうであってもいいやと思うようになった。それはもう私じゃない。
切ってしまった髪の毛やつめと基本的に大差ないと思っています。
師匠が亡くなったときはおもわず思いがこみ上げて号泣したが、これは死そのものより深くお世話になった思いからです。
この師があったからこそ祈祷僧と言うとても難しい道を歩んでいるという自覚があったのでその思いはは自分で思ったよりもいざとなると深かった。
死自体はいたしかたないことと観念して見ていました。
でも仔猫なんかが死んだりしたら純粋にただ悲しい。
この子何のために生まれてきたのかと悲しい。
そう考えると死はわたしにとって「お役目を無事に終えたかどうか」によるということのように思う。
皆お役目がある。
社会で誰もが知るような大きな称賛を浴びる偉業をなした人も、そうでなく片隅でひっそり生きた人も。
波乱万丈で変則的な人生をおくって結局そうだと思うし、犬や猫や野生動物にもある。生きた意義と言うものがあると思う。
それは私たちが価値ある人生だったとか、儚い人生だとかいう私たちの評価をはるかに超えて深遠なものがあるのだろう。夭折しても本当はそうかもしれない。
ただはた目から見て分かりやすい人生と分かりにくい人生があるだけだ。
皆お役目がある。
どんな人生であれ、それが全うできれば別れはつらいけど「本当にご苦労様でした。」と合掌できるように思います。