皆さんは十中八九勘違いするけど師と言うのは弟子見習や弟子が一生けんめい拝んだり、行をするか否かなど見ていない。
わたしもそうです。それは評価対象でない。
そんなのは好きでするのだからするのが「当たり前」だからです。
だれもやっていただきたいと頼んでなどいない。
「私こんなにやりました」などと言うひけらかしはコイツ人が見てないとやらないんだという証拠になるだけだ。
例えば七日間これをやれということを私は三日でやり終えました!などという人物は、それだけで修行の器でない。増上慢の輩でしかない。
その時点でもう、指導する気はないから「ヘエ、すごいですね。」と褒めておしまいにする。
褒められたくてそんな報告をするのだろうから希望通り褒めてはやる。
見ているのは人柄です。行を一生懸命するからなどと言うのを評価するのは素人でしかない。
昔、中国で円了凡と言う人が明の太祖の軍師 劉伯温にみてもらった。
劉伯温は伝説では四柱推命の祖といわれる占術の名人でした。
そうしたら何もかもドンピシャリで彼はその占い通りの人生を歩んできたことを知った。そしてなんと彼は自分が若くして亡くなると知らされた。
それでいよいよ最後に死ぬと言うときにもうお寺で観念してただただ座禅三昧に励んだ。
これを見た和尚は「アンタには迷いがないがどういう修行をしてきたんだね?」と言うと彼は事の次第を話した。
和尚は呵々大笑。「なんだ、死ぬと決め込んでいたので迷いがなかったのか。あんた、とんだ凡夫じゃったな。」と言って准胝仏母の真言と善悪を記す劫禍格という方法を教えて運命の改善を勧めた。果たして以後の彼は占い通りではなく長生きして幸せに暮らしたそうです。
この話でも分かるように熱心だ。一生懸命だ。などと言ってもその動機は様々だ。
それは表からは分らない。
だから行がすごいとかより感情に流されず、ぶれずに修行する。なによりも人格円満で謙虚である。忍辱の心と礼儀の心がある。
そういうのを見ているのが本当に人を見るという事だ。
ちょっとした言葉でもその人の本質を見抜く。
それが良き師と言うものだと思います。
私の師は「たとえ冗談でも心に無いことは口に出ないものだ。」と教えられた。
口を慎まないものなどは論外だ。