懺悔が進むと感謝の気持ちが出てくることがあります。
もちろん「感謝しなければならない」「感謝の気持ちがおきなければならない」ということではありません。
ただ自然と感謝できるというのは良い功徳ですね。
【ここから頂いたメール】
大森義成先生
この度もお世話になっております。大阪市の○○です。
今回3度目の滅罪会に参加させて頂き、有難うございます。
申し込みの時に「懺悔をする事ができました」と申し上げましたが、
そこから紐状に繋がった事がありました。
「懺悔をする事」というのは、私の傲慢さを反省した事でした。
仏様のお計らいだった事に気付かず、
少しばかりできる様になったからとしゃしゃり出てしまい、
その事に気付いた時、わが身をとても恥ずかしく、情けなくなり
「滅罪会の時にわが身の傲慢さを懺悔しよう」と決めました。
その為開白より一足早く、結願まで七日間やると決めて開始しました。
その後、食料の買い出しに行った物を冷蔵庫になおす時
何故か「今日も無事に食料を買う事ができた」とふと思い、
「あ!買い物ができる事は当たり前じゃないんだ!
有難うございます!」と
感謝の気持ちで心がほわほわほわと暖かくなりました。
日々仕事をする事、働いた分のお給料が頂ける事、
そのお給料で買い物をし、食事を摂れる事。
「頑張って仕事をしたのだから、お給料を貰って当然」
「そのお給料で買い物をするのは普通」と思っていた事は
全て私の傲慢さでした。
そう思うと、人に対して、家族に対して
生まれてこの方、数々の懺悔をせねばならない罪を犯して来た私は
「懺悔をした内容の全ての大本は“傲慢”なんだ」という答えに辿り着きました。
「私ごときの人は、世の中ゴマンと居る」と自己肯定ができずにいましたが
反面、心のどこかに
「自分はあなたより優れているから」という驕りと傲慢さがあるから
人に対してキツく言ったり、欲が止められなかったり
怠けたり、横着したり、自分の思う様にならないからと怒ったり…なんだなと思ったのです。
突き詰めれば、人が動物を食するのも
「人は動物より上なんだ」という傲慢さなのかもしれないなとも思います。
(お肉、止められてませんが…)
今回の滅罪会の懺悔は、犯した罪の数々を懺悔し
最後に「今懺悔した事は私の傲慢さ故です。傲慢な私を懺悔します」と
懺悔しています。
自分の傲慢さに気付くと、少し深い所から感謝できる様になって来た様に思います。
心がほわほわほわ~と暖かくなる事が気持ち良かったので
また暖かさを感じれる様、何事も当たり前だと普通だと思わず感謝する事を続けます。
これも欲ですね 笑
滅罪会にご縁を頂け、感謝致します。
これからもご指導の程、宜しくお願い申し上げます。
※次回の滅罪会は5月開催です