最近葬儀が多い。自分のところも含めてそうだが、葬儀の宗派はいろいろだ。
日本人と言うのは江戸時代依頼の宗旨人別帳を今だに大事にしているから珍妙なことが続出する。
ようするに自分の家の宗教を知らないのだ。
別にそれがいけないとは思わないが、そういうふうだからにわかに葬式になると○○宗の信徒になるのに大慌てだ。
だから私が聞いた話では日蓮宗の葬式なのに喪主があいさつでうかつに「皆さまのお陰で故人も極楽に行けます。」などといってしまったりする。
でもそういうのは責められないだろう。
檀家と檀那寺の接点は日ごろほとんどないし、積極的に布教もあまりしないからだ。
中には檀家に「本山に団体参拝するから参加してください」とか「寺で法話会をしますからお出でください」と促すような熱心な和尚もないではないだろうが少ないと思う。
「家の宗教」の意識は私がどう思おうがますますなくなっていくだろうね。
昨日の相談も「家に先々代が祀った荒神様があるが、自分の家の宗教では一切そういうものを拝まないのだがそれはいけないのか?どうしたらいいのか?」という相談。
霊能者から「それは土地を守ってきた神様だから供養しないといけない」と言われてここのところ熱心にお参りしているそうだ。
どういう霊能者か知らないがそこはわたしもそう思う。
家の宗派的に言えばもちろんいけないのだろうが第一相談にきている人が聖天信者だ。
その宗派では聖天さんを拝むことだって駄目なのだ。そこは全く荒神さんと同じだ。
いわゆる「異安心」である。
私は別にその宗派を変えなさいなどと言ったつもりはないが、ご本人とそうした話をしているうちに、荒神さんを取り払うよりはむしろ自分の家の宗派をいずれはやめたいと言い出した。
まあ、それも別段いいだろう。
だれも信じていない宗教を信じなきゃいけない必要などないからだ。
拙寺は庶民信仰を勧める立場なのでそこは家伝来の信仰とは全く一線を画して考えているが、信者さんサイドがそう考えてない場合もある。それはそれだ。
第一、聖天信仰を指導している身で聖天様を信じてはいけない宗派をやめるなと説得するのはどう考えてもおかしい。
「そこはご自分のお好きにされたらいいのでは、」と言っておいた。