中医学では「弁証論治」と言う言葉があるそうです。
まず、病のメカニズムを知って治療薬や方策を立てる。
わたしが長年課題としているのは精神疾患です。
だいたい精神病院レベルだと強い薬を出して要するに行動を制する。
なおるわけじゃない。
試しに友人が飲んでいた精神安定剤をっもらって飲んでみたらほぼ一日動けなくなった。
そういうものなんだなと知った。現代でも基本は同じだと思います。
加持祈祷だといわゆる憑物と言うのがある。
これを現代の医学では精神病と位置つける。
だが病気と言うのはあくまで本人が困惑し周囲が迷惑するから病気なので、同じ性格を活かして霊能者として活躍したりイキガミ様になっている人もいます。
私は人間には誰でも程度の差はあれ、もともとそういう性格が隠れているのだと思う。
要は制御できるかできないかだと思う。
わたしは医者ではないから、医学的にアプローチはできないし、しない。
だが憑物のメカニズムは必ずしも憑物ではありません。
そこにはいろいろな精神性からなる疑似憑依がある。
ただし疑似であれ真性であれ共通の基調はあると思いますね。
森田両方の創始者・森田正馬博士が森田神経症と言う分野にヒポコンドリー基調と言うのを見出したのに似ています。
憑物には疑似的なものであれ、真性であれ基調がある。
俗にいう霊媒体質とか霊感体質とか言う奴です。
だがこれも精神構造のゆがみが形成しているものはしばしば悪さをします。
だからそれをただすと症状も消えるが霊感も消えたりもする。
消えないのなら本物だと思います。
また精神構造のゆがみは補償作用としてそういうものを生み出すこともある。
たとえば「私、霊感が強いので専門の行者になりたいんです。」と言ってくる人に多い被疑者意識が強い人は基本的に専門家にはなれないとみている。
邪霊や人の怨念や悪いものにしかアクセスできない。
そんなのは悪いがつかいものにならない。
逆に誇大妄想的なものの場合も同じです。
降臨してくるのは神や仏や天使や偉人で自分は必ず王族だの高貴な人の生まれ変わりだという。
それでいて本人は無職、無能で家族の負担になってなにもしていないとか、社会常識もかけていてる人も多い。要するに社会性が欠落している。
終いには狂度がましてきて自分は他天体から飛来したとかいいだす。
要するに駄目な自分の補償として幻影が生み出す世界に浸っている。
稀に多少の教養からうまく理屈をつけて、それにまた共鳴するおなじような人とかいると厄介になる。
教団ならぬ狂団になったりする。
そうなったら手が付けられない。
昔は気合一発で治せた行者もいた。今の行者は駄目なのか。
必ずしもそうではないでしょう。
昔の社会は憑物とはこういうもので、こうこうすれば治るという共通了解が強くあった。つまり行者に拝んでもらえば離れるとか、狐憑きを四辻に背負って行って握り飯とともに放り投げるとか(かなり乱暴だが)
その共通了解のエネルギーは集合無意識を形成する大きい治癒の基盤だと思うのです。
したがって価値観の複雑化する現代ではまず共通了解の基盤作りから始めるという作業が必要です。
だからいきなり飛び込み依頼の憑物退治はやらないというのが私の立場です。
だが、憑物退治の集合無意識そのものは埋もれても決してなくなってはいないでしょう。それを掘り起こし、そこに参入してもらうという丁寧な作業が必要。
よくやる錫杖を振り気合を掛けるショック療法もいいが構造の処理がうまくいかねばなかなか根治には至らないでしょうね。
憑物にも弁証論治は大事だと考えます。