台湾のお寺でもこのお像は見ました。
たしかに奇異に見えるが歴史的背景を考えて物が見られない残念な考えだ。
実際むかしの食べ物の豊かでない時代ではそういうこともあったでしょうね。
母のお乳を吸っていた娘が、歯がなくなった母に今度は自分のお乳を与える。
たしかに像を見たらギョッとするが、訳を聞けばそんなグロテスクな話ではないと思う。
美しい話だ。外見の奇異を活かせば二十四孝と言う話を知ってもらうきっかけでもあると思う。
それを変だから撤去。
形を見て心を測らず。それで撤去。
このお話には親を思うと言うだけではなく、歯の弱い母に提供できるのは自分の母乳のみと言う生活苦の問題や老いの問題などのテーマが見て取れる好材料だ。
それを見た目が変だ、奇異だというだけで取り払う。
今の中国のどこに共産主義の思想が残っているのか。
肥え太った豚の考えしかない。
いかにも現代らしい病的発想だ。中国だけでなく日本も同じだ。
バカ殿様が嫌がるから出すのやめておけ見たいな発想。
わたしはこの考えが大嫌いだ。
時にわたしの寺に来た人も飯縄様を見て
「なんでこの神様は頭が人間ではなく鳥みたいなんでしょうか?」と聞いた方がいた。
「人間の顔の方がいいですか?」
「鳥の顔ってなんか変でしょ」
「そうですか?神様と人間とは違う。人間に変化した姿はあるだろうけど
顔が人間でないといけない理由はない。神は人間じゃないのですから。」とだけ答えた。
鷲の顔をした神の弁護などいちいち必要ない。
ちなみに歌舞伎でおなじみの本朝二十四孝はこの中国の二十四孝からヒントを得たお話です。