日本には心映えということばがある。
心をあらわすことだ。
思いやりとも違う。
思いやりは誰かを思ってのこと。
心映えは似てはいるが自分の心をあらわすこと。
心映えとは特定のだれかのためを考えての思いやりのような対処的なものではない。
むしろ「常なる自分の心」より出た美しい「花」である。
「平家物語」の中に平安時代、比叡山に対立する三井寺の僧が比叡山の堂塔伽藍を焼こうと夜陰に乗じてひそかに潜入した話がある。
僧兵時代の三井寺はたびたび比叡山と激しく武力衝突を繰り返したが、琵琶湖沿岸の三井寺は地理的に優位を誇る比叡山の急襲を受けてすでに何回となく焼かれ、堂塔伽藍の多くは灰燼に帰している有様であった。
さて、今宵こそ積年の恨みを晴らすべしと根本中堂を焼こうとしたが・・・・ここは伝教大師一刀三礼の薬師如来を祀るところ。とても焼くことはできないと彼は思った。
「すわ大講堂こそ!」と思うが、「ここは天台一宗の肝心「法華一定」の論議を尽くす根本道場、此れを焼くことは台家一門の徒として忍び難い。」。
「では「担い堂」を焼こうか。」と思うが、いざとなると「イヤイヤこここそ天台大師以来の常行三昧の尊い道場…」などと考えて山内をここかしことさまよったが、彼は護法の想いやみがたくどこにも火をかけられなかった。
そして「自分は三井寺の僧で積年の恨みを晴らさんがため、比叡山の伽藍を焼亡せんと推参した者。だがついに焼くことはできなかった。今は虚しく立ち去るのみ。」と書き残し、一山総集の梵鐘を打ち鳴らして去っていく。
にわかに鳴り響く鐘の音に急ぎ集まった山門の僧侶たちは、それを読んで「哀れなる心かな」としみじみ感じ入ったという。
※三井寺の僧兵と釣鐘と亀の合体キャラクター「ベンベン」
この哀れは「かわいそう」という意味ではない。
この僧侶の「こころ映え」がしのばれるという意味です。
「つまり恨みはあるが、お堂を焼くことは僧として忍びない」というこころです。
この言葉は同じく敵味方として僧侶の身でありながら日々抗争に明け暮れる比叡山の僧侶の心を深く打ったのです。
このような大層なことでなくてもなにびとか知らずとも、人の目を楽しまさんと一輪の花をさりげなく飾るのも心映えです。