生霊のアンカーは恐怖心 罪悪感
これがないなら専門家の呪詛でもない限り受けない。
発信があっても周波数合わせないとラジオの電波とれないのと一緒。
恐怖心や罪悪感が大きいほど比例してその影響は大きいものです。
気にすることは先ず周波数合わせること。
だから皮肉ですが怖がっていれば受けます。
強欲な人や権力志向の人は受けない。
なぜならそんなちまちました個々の人間関係ノイザコザや嫉妬や世上の中傷よりも、お金の問題や地位の問題のほうにしか気持ちが行かないから。
怖いのは収入が減ったり、地位が脅かされることのみ。
そういう人は沢山の悪念波を飛ばされても受けにくい。
昔から言う「悪い奴ほどよく眠る」というのはそういうことなんですね。
気にしないから。
悪人でなくてっも人生は「いくさ」だと思う人は人の念など受けない。
亡くなった野村幸代さんはそういう考えの人だと聞いたことがある。
いい悪いは別にして牢屋から出ても堂々とテレビにも出る。人前でしゃべる。
「戦」だから攻撃はあたりまえなので。そういう考え。
来れば返り討ちにするのみ。まあ、こういう人は本人より回りが心配かも。
だけど気にしてしまう人はどうしたらいい?
より大きい恐怖を持てばいいんです。
こんなこと気にしてたら病気になってしまうとか、やりたいことできないで終わってしまうとか・・・なんでもいい。
よりそっちが怖ければ気にしないで済む。人の念だの悪口だのそんなの相手してられない。
なら受けません。
だからそういう人には恐怖も役に立つ感情なんです。
ヒポコンドリー基調の神経症の療法「森田療法」の創始者 森田正馬先生がこんなことを言っている。
迫害を受けても怖い思いをしても少しもくじけない人には理由がある。
例えば日蓮上人は時の幕府や、当時人気のあった念仏や禅宗を批判して多くの敵を作り危ない目にもあいました。殺されそうな目にもあった。
そういうのが少しも怖くなかったのかと言えばそうではないと思う。
日蓮上人だって叩かれれば痛い、死ぬのもコワイは当然だ。
彼が一番怖かったのは「法華経の広宣流布」ができないこと。
そのために生まれてきたと自覚されてたから。
それがだめだと自分なんか存在に意味がない。それほどの恐怖。
それに比べたらもう迫害だの島流しだの刀杖瓦石の難など怖くなかった。
それだけのこと。
火事はこわいけど燃えている家の中に自分の赤ちゃんが鳴いていたら、助けに飛びこむ親は少なくない。
火事が怖くない訳はないが、子供を失う恐怖の間には存在しないに等しくなる。
いい話じゃないけど「ジハード」とか言ってイスラムの一般のご婦人までもが爆弾腹に巻いて戦車に突っ込む「自爆テロ」だって天国いかれないほうがと怖いからやるんでしょ。
恐怖も使いようです。
だから志をとげられないことに最も恐怖する人はその志をとげるでしょう。
昔から言う「百万人敵するといえども我いかん」というのはそういうことを言うのでしょうね。
伝教大師でも弘法大師でも偉大なことする宗教人は皆同じだと思う。
昔の合戦でも「壱番槍じゃあ~!」とか言って飛び込むのは「臆病者」のレッテルの方が怖いからです。あるいは「剛の者」の看板が外れるこわさ
世の中にはいいたいことがこわくていえない人が大勢いる。それはバッシングが怖いからでしょう。すぐに攻撃が来る。一人でも何か言われたらもう嫌になる。
だけどその「言いたいことを言えない 」それこそが一番怖くなったならバッシングは怖くなくなる。
人のこころに弱いも強いも大差ない。
ただどう使うかだけです。