日蓮上人の考え方だが実にうがった考えがある。
祈りとその感応の話。
これは「日蓮聖人御遺文」の「道妙禅門御書」というなかにあります。
「顕祈顕応」から「冥祈冥応」までの四種の祈りと感応。
第一に「顕祈顕応」 しっかり祈ってご利益も目にも鮮やかということ。
どこかのお上人にお祈りしていただいて霊験があらたかであるというケース
第二に「顕祈冥応」 御祈願してもらったが、祈願してもらったこと自体は叶わず、結果はよくわからないが、実はそれで厚く守護されているというケース
第三に「冥祈顕応」 ご祈祷などはあえてしていないが日頃よく信仰していて、それがために驚くような霊験を得るケース
第四に「冥祈冥応」 同じく日ごろの信仰でこれといって特別意識すりょうなことはないが全般に厚く守護されているケース
普通は「顕祈顕応」ということが主眼だろう。
だが信仰が深まれば「顕祈冥応」も理解できるし、
さらに深まれば「冥祈冥応」というのが本来の信仰だというのもわかる。
「冥祈顕応」というのも「冥祈冥応」の心あってこそだろう。
ちなみに日蓮宗の熱心な信者様から天台の法華の祈祷はどんなものですか?と聞かれたが、基本読経するだけのことだ。
日蓮宗の様に目的別の霊符や内符などは用意されていない。
私は天台法華の祈祷自体が「顕祈冥応」のものだと感じています。