金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

宗教者への依存に終始する疑似信仰

宗教者に依存するのは真の信仰にあらず。

にわか作りの人間関係の土台の上に希望をつないでいるだけだ。

それでそこの人間関係だけ密になる。

まあ、平たく言えば懇意になる。

懇意になれば信仰への理解が深まるならそれもいい。

だが、ただの依存に堕して信仰はそこで止まったままというのもある。

そんなことしたって本当は何も変わらない。

 

弟子とでもなればまた別だが、弟子でもレベルによる。

ほしいものがあるから習いたいだけの人は弟子じゃなく生徒だ。

弟子が学ぶのはものではなく人。

そういう意味じゃ人が学ぶだけの「人となり」の中身が希薄な下根劣慧の私なんかでは本当は全員生徒だろうと思う。

なさけないけどそれが本当だね。