修行も若いうちの方が純粋に行に取り組んで熱心な人は多い。
火の出るような行もいとわぬ人もいる。
世間知にたけていない分、純粋で真直ぐでもある。
なのになぜそれをして未熟というのか。
むしろ世間知にまみれた人間よりもよほど仏に近い心というべきではないのか。
それは若いものは純粋だが経験がないのでわずかな効験を見て慢心したり、自己過信するゆえである。
自分ができることは円熟するほど少ないと考えるようになるものではないだろうか。
他はすべて所縁のなせるお陰である。
慢心や自己過信を離れるものこそ円熟のしるしであると思う。
ただし、これは実年齢と必ずしも比例しない。