宮本武蔵の独行道 剣聖武蔵が最後に至った境地といいます。
一、世々の道をそむく事なし |
正保弐年
五月十二日 新免武藏
玄信〔花押〕
寺尾孫之丞殿
武蔵はこれを単に持戒の言葉とせず、弟子の寺尾孫之丞に与えている。
13歳で有馬某という兵法者を倒し、以後常に切るか切られるかの生死の世界に長く身を置いた武蔵の境地は凡庸で安閑として生きてきた私ごとき者に知り得ようはずもないが…
脆弱なこころの持ち主でしかない私などはずいぶん武蔵にあこがれた。
それで武術も下手の横好きにやったりしました。(笑)
独行道、一言だけ言えるのはこれは相互依存による「幸福」の放棄ではないだろうか。
とはいえ武蔵も人である以上、「不幸」は嫌なはずだと思う。
その辺は普通の感覚の持ち主であろう。
不幸が好きなら勝とうとせず相手に切られればそれで良いのですから。
だからここに書いてあるのはそういうものや人によらない満足な生き方。
世間の生き方は普通人や物によって満足を得る。それを「幸せ」という。
でも武蔵の独行道はそうじゃない。
人や物への依存は最小限だからその増大による満足はない。失われても不幸には思わない。
若いころはすごいなあと思った。でもこんなの無理だわと思いました。
でも、これは武蔵最晩年の言葉です。
自分も年を取るといくつかはできそうな気にはなる。
(自分も武蔵の亡くなった年は過ぎた。)
・・・というより人や物に依存しても究極的には満足は得られないのだと思う。
独行道はその気付きをもとに一人で満足に生きる道なのではないだろうか。
気づけば誰もが「独行道」なので、これは案外一番、気楽で心が安らかな道かもしれません。
それはある意味仏教の教えと一つだ。
故に武蔵の教えは「禅」の世界ではしばしば法話の題材にもなっているようですね。
だから、どんなに孤独な道に見えてもこれは矢張り処世の言葉で彼は世捨て人ではないでしょう。
一番最初に「世々の道をそむく事なし」といわれていますから。
実際、武蔵は晩年細川藩で藩侯に厚く慕われ、伊織というしまいに家老にまでなる養子もでき、多くの弟子にも恵まれて一生を送っています。
客観的にも十分幸せな生涯だ。
「独行道」を授与された寺尾孫之丞などはその筆頭格の弟子なのでしょう。