子供の両親惨殺事件というのはいくつかあるがその一つの起きた近所の御祈願。
「あんた、これどう思う。」師匠から上下がとんがった栗のようなオーブがいっぱいうつっている写真を見せられた。そこで撮れた写真だという。
正直オーブから吉凶を見分ける知識はなかったがたしかに丸くはなく妙な形だ。
実はここは江戸時代、いわゆる働けなくなった女郎さんを置き去りにして捨てた様な場所だったらしい。
怨念の渦巻くかなり恐ろしいことろだ。
メンタルの弱っていた犯人はもろにかぶったんだろうね。
でも殺人罪は本人の罪であることは変わらない。
こういうのを霊のせいにはできない。
ちゃんとした人格さえあればこういうことにはならないからだ。
給料安いから、貧乏だからは盗みをしていいという理屈にならないのと同じことだ。
自分のよからぬ行為を霊のせいにする。そういう人います。
以前にどうしても妻子ある男性と関係を結んでしまうという女性の電話。
それも同時に複数。
きっと悪霊の仕業なので祈祷でとりはらってくれという。
「自分はそんな悪いこと絶対にしたくないのにさせられているんです。霊能があるならわかるはずです。わかってください。」という。
それで拝んでくれという。
やなこった。幸か不幸かそんな霊能などない。そういうのは一切拝まない。単に分離が起きているだけだ。
分離しているから反省も懺悔もできない。
そういう人はもし祈ってやれば、同じことをしても今度はご祈祷が効かないからだと文句たれて私のせいにするだろう。そして分離はますます深くなる。
結局どこかで正当化して置きたいだけだ。その手には乗らぬ。
「自分がしていることなのにあなた自身はまったく責任を放棄していますね。そういうあなたはどこまでも卑怯で無責任なひとだ。だからこそ悪霊とお似合いなのだ。」といっておいた。
たとえ悪霊でも障碍でも、まず自分が決然として何とかするという意思があってこそ解決を見るのだ。祈祷はそれを援護するものでしかない。