うちは新宗教の人は講員にしません。
「つきあいで形式だけなんです。」
「家のものが入れたんです。」
「勤め先の都合で」
という場合も一切お断りです。
配偶者が新宗教の信者という場合も話し合ってハッキリしなきゃ許可しない。
宗教やって家庭争乱など意味ない。
前に電話したら「うちは○○に入っているんです。うちの主人に変な宗教勧めないで!」という奥さんが出て驚いた。
こんな状況で信仰などできない。勧めた憶えなどないが変な宗教はあんたの○○だろうと思うが・・・
要はきちんと自己主張ができないのだ。「私は私 あなたはあなた」が言えない。
そんな人の側に立ってその奥さんと言い合いなどしても意味ない。
それは私のすることではない。
「奥さんがやめてくれといってたよ。やめれば?
だってあんた自分の信仰のことも決められないんだよね。」でおわり。
そんな自主性の確立していない人に用はない。そもそも講にいてほしくもない。
ほかにも一般にもお参りされる神社仏閣の信徒講程度はいいが、
その場合は逆に「向こうをうちより大事にしてください」という。
従来のままの付き合いをせよという。
祈願はすべてあちら様でお願いしてとほしい言ってある人もいる。
逆にそうした新宗教に入った講員もやめて頂きます。
宗教とはそのようなものではない。酷いのになると講中でその布教まではしかねない。
獅子身中の虫は即座に駆除する。
こういう話、人によっては「物分かりが悪いやつだ」「慈悲がないのね。」と思う人もいるでしょうが、ハイ物分かり悪いです。無慈悲で上等です。それで通します。
妥協しません。
他にも理由がある。
ご本人は形だけのつもりであっても新宗教側はなかなかそうは思っていない。
信徒は信徒だもの。
教団側が何千何万といる信徒をいちいちどの程度熱心なひとかなど一人一人把握などしてなどいない。
前に「新宗教やめるのでそこのものをお焚きあげしてほしい」といわれて言葉どおり廃棄したら猛烈な苦情が教団の紹介者から来た。
その崇拝対象を「かえせ!」という。
「とっくに焼いて捨てたからもうないよ。」と言ったら、激怒した。
「捨てろというから捨てただけ。」というとさらに怒った。
むろん知ったことじゃない。いらないから焼いてほしいというから焼いただけだもの。
その紹介者がいうには「辞めたことを本人も後悔している」という。
むろん、私は相手が何を言おうと一切謝りなどしない。
それで癪に障るのか、しまいに興奮して「罰が当たりますよ!」とまでいうので
「ふざけた口も大概に聞け。そんなことは私の知ったことではない。それを他人に言うならちゃんとやめる場合はどうこうというフォローしないからそうなるのだ。罰が当たるならそれはお前さんにあたるだろうよ。」といっておいた。
この人もほぼ付き合いだったらしいが、やめると聞くや紹介者はじめ信徒が訪問して責められたようだ。その宗教の人の話では復帰したそうだ。
そういうのが新宗教だ。
似たようなバトルがいくつかあるので懲り懲りだ。
以後、その教団のものはうちにもってこないで教団に返せと言っている。
「それ言いにくいのでお願いです」という人もいるがやなこった。
そういうケースが得てしてやめた辞めていないになるので絶対拒否する。
そんなこと私には何の関係もない。ましてや、ただの一般のお人だ。
それって迷惑至極だ。
言い換えればそういう辞めにくいものに唯々諾々とあなたは入ったのだと認識してほしい。
酷いのになると辞めたいのでついてきてほしいという。むろん断る。
新宗教は辞めるとなると大体向こうは大勢で来て責め立てるから折れてしまう。
だが、そもそもあやふやな態度だから推うところに入れられてしまうのだろうから
新宗教と信者の奪い合いをする気など毛頭ない。
まして、どちらが正しい宗教かなどと言う話はまったく関係ない。
そもそも辞めるのに書類だ ハンコだ 紹介者だ そうでないなら辞められないというのが憲法の「信教の自由」から言えばおかしいのだ。
うちなんか電話一本だ。とめたことはない。
「はい、わかりました。」でおわり。
宗教は心のものだ。
信教の自由があるのだから勝手だ。
ただし辞めた人は二度と入れないのも勝手だ。そんな軽いものと思っては困るから。
宗教の側ができること。それは拒むことだけ。拒むところでしっかり拒む。
今後とも新宗教の人は断固お断りだ。
どうしても来たいなら「まず正式に向こうをやめてきてください」しかない。
そもそもそういう人たちは「因縁が違う」と師匠は言っていた。
私もそう思う。本質はそこだろう。
なので新宗教の信徒でうちに関心ある人はやめてまでうちなんか来ないほうがいいよ。せいぜいそちらでお気張りやす。